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日本史 高校生

ほとんど分からなく、教えていただきたいです🙇🏼‍♀️

天平文化の中心となったのは仏教で, 朝廷の保護を受け, 国家仏教としてさかえた。都には興福寺や東大寺など 大寺院が多く建てられ, 南都六宗とよばれる仏教を研究する学派の基礎が形成された。 政府は, 僧尼が寺院外で 布教することを禁じていたが, (①)のように社会事業や布教活動を行う僧もあらわれた。 天平文化を代表する建築物としては、聖武天皇の遺愛品が収蔵された校倉造の(②) 宝庫や, 三月堂ともいわ れる(③) 法華堂, 現存する奈良時代唯一の金堂である唐招提寺金堂などがある。 また, 奈良時代にはさまざま な書物が編纂された。 歴史書では, 奈良時代初めに『(4)』と正史の『(⑤)』が完成し, 諸国の地理・産物など の調査報告書として『(⑥)』 がつくられた。 現存最古の漢詩集となる 『(7)』 や, 有名な歌人の歌から地方の農 民の歌まで約4500 首の歌を集めた 『(⑧)』 も編集された。 問1 文中の(①)~(8)に適する語句を答えよ。 問2 (④)作成にあたり、 天武天皇が稗田阿礼に暗記させた天皇家の系譜や伝承を筆録した人物は誰か。 問3 (⑤)に採用された, 年月の順を追って史実の展開を記述する歴史叙述の形式を何というか。 問4 次のア~エのうち, 天平文化の時代につくられたものを記号ですべて答えよ。 ア. 薬師寺東院堂聖観音像 イ. 東大寺法華堂執金剛神像 ウ. 興福寺阿修羅像 エ. 唐招提寺鑑真和上像

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日本史 高校生

読んでもよく分かりませんでした 分かる人は下の問いを教えてください! お願いします🙇‍♀️

内閣総理大臣桂太郎、 外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。 6月11日におそらく作者のリークにより 七博士意見書 (しちはくしいけんしょ)とは、 日露戦争開戦直前の1903年(明治36年) 6月10日付で当時の 東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載された。 年の7人 (「東大七博士」) によって書かれた。 内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「バイカル湖まで 東京帝国大学教授戸水寛人、 富井政章、 小野塚喜平次、高橋作衛、 金井延、 寺尾亭、 学習院教授中村進 侵攻しろ」 と主戦論を唱え、 対露武力強硬路線の選択を迫ったものであり、世論の反響も大きかった。 この意 見書を読んだ伊藤博文が 「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。 同書を渡さ れた桂太郎は「政策のことまではいいが、軍事のことまで言うか」と困惑した。 4 44 「東大七博士の意見書」 『東京朝日新聞』 「噫(ああ)我国は既に一度遼東(りょうとう) 還附(かんぷ)に好機(こうき)を逸(いっ)し、 再び之(これ)を膠州湾事件(こうしゅうわんじけん) に逸(いっ)し、又(ま)た三度(みたび) 之れを北清事変(ほくしんじへん) に逸(いっ) す。 豈 (あ)に更(さら) に此覆轍(このふくて つ)を踏(ふ)んで失策 (しっさく)を重(かさ) ぬべけんや。 既往 (きおう) は追ふべからず、 只之 (ただこれ) を東隅 (とうぐう) に失ふも之れを桑楡 (さんゆ) に収 (おさ) むるの策 (さく)を講(こう)せざるべからず。 特に注意を要すべきは極 東 (きょくとう) の形勢漸(ようや)く危急 (きき)に迫 (せま)り、既往(きおう) の如(ごと)く幾 回(いくかい) も機会を逸(いっ) する余裕を存せず。 今日の機会を失へば遂(つい)に日清 韓 (にっしんかん) をして再び頭(こうべ)を上ぐるの機 (き) なからしむるに至(いた)るべき こと是(これ)なり。 (中略) 故(ゆえ)に極東現時(きょくとうげんじ)の問題は必ず満州 (まんしゅう) の保全 (ほぜ ん)に就(つき)て之(これ) を決せざるべからず。 もし朝鮮を争議 (そうぎ)の中心とし、 其 (その) 争議に一歩を譲 (ゆず) らば是(こ) れ一挙(いっきょ)にして朝鮮と満州とを併(あ わ)せ失ふことなるべし。 (中略) 之を要するに、 吾人(ごじん) は故(ゆえ) なくして漫 (みだ)りに開戦を主帳するも のにあらず。又(また) 吾人の言議 (げんぎ) 適中(てきちゅう)して後世(こうせい)より先覚 (せんかく) 予言者(よげんしゃ) たるの名称を得るは却(かえっ)て国家の為(ため)に嘆 (たん) すべしとするものなり。 (ああ) 我邦人 (わがほうじん)は千歳(せんざい) の好機 (こうき)を失はば我邦 (わがほう)の存立(そんりつ)を危(あやう)うすることを自覚(じか く)せざるべからず」 【作業】内村と東大七博士の言い分のどちらにより道理があるとおもいますか? 理由も書きましょう。

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日本史 高校生

学校の日本史でこのプリントを貰ったのですが、空白に何が入るのかわからないので教えて欲しいです!

R AA CO 【律令国家の文化】 NO.15 (4) 国家仏教の展開 ① (1) 鎮護国家思想 政界・社会の動揺を仏教の思想で鎮める→国家仏教 a. (2聖武 天皇による大事業 国分寺建立の詔 (741) 国ごとに僧寺 尼寺の建立 大仏造立の詔 (743) →(3 開眼供養 (752 孝謙天皇) b. (4鑑真) 6度目の渡航で日本へ入り, 日本に戒律を伝える (754) 国家仏教の展開 c. 現世利益 仏教の日本社会への浸透 d. 16 神仏習合 〕思想 日本古来の神祇信仰と仏教信仰の融合 じょうじつ ほっそう くしゃ けごん ② 教義研究 16 南都六宗 〕 三論・成実・法相・倶舎・華厳律の各宗 ③ 社会事業(光明皇后悲田院(貧窮者孤児を収容) 施薬院(施薬治療施設)設置 (行基) 政府の弾圧の中, 民間布教 社会事業に尽力 (のち大仏造立に協力) (5) 天平の美術 新金岡市中 て ① 建築 〕法華堂・転害門・正倉院宝庫(校倉造) (10 唐招提寺金堂・講堂 がっこう ② 彫刻 a. 塑像 [9 日光・月光菩薩像 東大寺]法華堂(不空羂索観音像 b. [12 乾海 ]像[ ]法華堂不空羂索観音像[10]鑑真像・興福寺八部衆像 ③絵画 薬師寺 (13 吉祥天 らでんしたんのごげんびわ んくんろ しっこへい ④ 工芸 正倉院宝物 (螺鈿紫檀五絃琵琶・銀薫炉 漆胡瓶など) (14称徳恵 天皇の発願で制作 印刷した陀羅尼経を小塔に入れ, 十大寺に納める a. 4 律令国家の受容 (1) 平安遷都と蝦夷との戦い えみし ※桓武天皇の二大事業 軍事 (蝦夷征討) と造作 (平安京造営) だに 百万塔陀羅尼 現存最古の印刷物 ① 平安遷都 寺院勢力からの脱却, 人心の一新, 軍事・交通上の便 a. [15 長岡京 784年遷都→藤原種継の暗殺→造営中止 b. 平安京 (16 の建議で794年遷都 []像 正倉院鳥毛立女屏風 過去現在絵因果経 ※平安時代 (平安京遷都~鎌倉幕府成立) これはりのあざまろ ② 東北経営 伊治告麻呂の乱 (780) などの反乱→支配強化へ 797 征夷大将軍に (17坂上田村麻呂)を任命 802 [18 b. (26 胆沢城の構築、蝦夷の族長阿弖流為が帰順 鎮守府を [19 多賀城]から[18胆沢へ移す b. 兵制改革 [21 c. 班田制の励行6年1回 [22 ② 嵯峨天皇(在位809~823) [23 嵯峨天皇,蔵人所を設置し [24 * [25 7~9世紀頃の東北経営 城柵 国府 平安京遷都直後 ( 9世紀初期) T |奈良時代中期 (8世紀中頃) | 大化の改新 直後の 支配領域 (7世紀中頃) 2 羽 (708) (648) © BUON [浮足樹] (647) 後 □]の設置 国司の交代を監察し不正防止 解由状の審査 の制(792) 郡司の子弟などで組織 ] 年1回(一紀一班) (759) [秋田城] (733)。 出 百万塔陀羅尼 る (803) 志波城の設置 前線をさらに北上 (802) 陸奥 18 ③ 徳政相論 (805) 二大事業継続を主張する菅野真道と批判する藤原緒嗣の論争→二大事業は停止 りょうげのかん (2) 平安時代初期の政治改革 令外官の設置 (令の規定外の官職) ① 桓武天皇(在位 781~806) a. [20 (724) Man 鎮守府の移転 (19 |鎮守府の設置 伊治皆麻呂の乱 辺境の要地以外の軍団と兵士は廃止 雑搖を年60日 30日に軽減 公出挙の利率5割→3割 ちょう そ 〕 (810) 藤原藥子・仲成が平城太上天皇の重祚を策し失敗→式家没落 ]に藤原冬嗣ら任命→北家台頭の契機 ] 〕 (810) 天皇の機密事項を扱う 〕 (816) 治安維持, 訴訟・裁判 (六衛府・弾正台・刑部省等の権限を集中) 当テスト 僧氏 20

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