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現代文 高校生

⑤がなぜ正解なのかわかりません。 正確さに欠けるとはどう言うことなのでしょうか?

【資料Ⅰ】 7% 13% 42 キャッシュレス決済の利用について 148 20 351 0% 20% 【 資料 Ⅱ 】 40% 60% 35% 10% 80% 100% 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を始めた A 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を検討している 以前から利用している 利用するつもりはない 無回答 キャッシュレス決済の利用状況について 60% 54% 50% 50% 43% 40% 34% B1% 29% 30% 20% 19% 20% 10% 0% 40代以下 50代 60代 70代以上 「以前から利用している 利用するつもりはない 【資料】 62960 外食と持ち帰りの税率の違いについて 28% | 外食の際に意識する | 外食の際に意識しない (いずれも「毎日新聞」 2019年10月28日掲載記事をもとに作成) らを読んで、後の問い (問1~4)に答えよ。(配点 20) であり、【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、キャッシュレスのメリットや普及への課題について新聞に寄稿された意見文である。これ ト還元制度が導入された。【資料1】~【資料Ⅲ】は、消費税増税後に行われたキャッシュレス決済の利用等に関する調査結果 化政策を推進している。二〇一九年十月には、消費税率の引き上げに伴い、軽減税率制度とキャッシュレス決済に対するポイン 政府は、少子高齢化や人口減少による労働者人口の減少に備え、生産性を向上する手段の一つとして、キャッシュレス (注1) (注2)

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現代文 高校生

画像が横ですみません ウではない理由を教えてください (ウだと思った根拠:相手の意見により客観的になるため)

10 論理 (学問) 読書力 さいとう たかし 齋藤孝 . I テ 経験を積み重ねる読書のしかたとは 具体例と筆者の意見を選別しよう 攻略のプロセス1・2を通して、《効果的な読書のしかた》を《具体例と意見を選別しながら読み取ろう。 (注) 読書を必要ないとする意見の根拠として、読書をするよりも体験することが大事だという論がある。こ れは、根拠のない論だ。体験することは、読書することとまったく矛盾しない。 本を読む習慣をもってい る人間が多くの体験をすることは、まったく難しくはない。むしろいろいろな体験をする動機づけを読書 から得ることがある。たとえば、藤原新也のアジアホウロウの本を読んで、アジアを旅したくなる若者が いる。本に誘われて旅をするというのはよくあることだ。あるいはコウコガクの本を読み、実際に遺跡掘 りの手伝いに行く者もある。 読書がきっかけとなって体験する世界は広がってくる。 それ以上に重要なことは、読書を通じて、自分の体験の意味が確認されるということだ。本を読んでい 「自分と同じ考えの人がここにもいた」という気持ちを味わうことは多い。まったく生まれも育ちも違う のに、同じ考えをもっている人に出会うと、自分の考えが肯定される気がする。自分ではぼんやりとしか わからなかった自分の体験の意味が、読書によってはっきりとすることがある。 「あれはこういう意味だっ10 (注2)ふ たのか」と腑に落ちることが、私は読書を通じてたくさんあった。 ああ刀す

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現代文 高校生

問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題

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現代文 高校生

問4の解説お願いします!🙏🏻

一般入試A問題 (2月3日) 国語 ねばならない。 Hill 五 二戸口 (解答番号は、第二間で 【古文】 を選択した場合は1~2、【現代文】 を選択した場合は1~125 です。) 第一問 次の文章を読んで、設問 (問1~間10) に答えよ。 少女が街に濡れた”を差し出し、言う。「ビ。」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに もない。少年が朝鮮語を知らなければ、え、何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる事態を、経験することになる。 wwww ロサンゼルスでも、アルマ・アタでも、どこでもよい。英語とスペイン語でも、北京語と広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの客と運転士との会話でもよい。 複数の言語が出会う言語場、複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常の出来事である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」「解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの言語で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはり B に過 ぎない。 さらにこの意味の曖昧な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ るやかなものであることがわかるであろう。 意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 ここでは単に「ことばは常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と いう指摘は、それ自体として大きく誤ってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に画定し難いもの だという、意味の実現の原理的なありようをここで問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは なく、 意味となるものであることの結果についての辞書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」や「曖昧性」もま た、肌をCにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 じで…」 などとことばにする方式、意識的に表現を不明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この延長にある。 既存の意味論は、「ことばは意味を持つ」と考えた。このことは換言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の言語場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レム は、いくらでもある。そうした意味の濃淡を持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、空理の所行と言わ また、ことばはそれが話されたことば〉であれ書かれたことば〉であれ、外形を有している。形が在る。形を有す ること はが何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代言語学の根源的な病である。 ことばが通じないのは、片や青森方言、片や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは「誤解するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という 暗のテーゼを前提として出発している。そうした前提に立って、誤解とか誤訳とか伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったことを論じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 外の意味」や「語用論的な意味があると考えてきた。〈書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを 「正しく」 「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで 24一般入試A問題 21

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現代文 高校生

問10 ④ 問11 ③,⑤ 問12 ①,④ について解説お願いします!🙏💦 答えは上から、1,4,3です。

的に成立 (2023AG-F-10) ほない。 解釈されて れるもので ~⑤のう 一国 11- わかりやすい。 第二問 次の文章を読み、設問 問1~問12)に答えよ。 理系の学問については、高度な計算や化学実験やプログラミングができるようになって新しいものを設計することが可能に なったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確に理解することで問題が起こった場合の対処ができるようになったりす るなど、その学問を修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは、 A それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値とは、曖昧にしか論じられないものである。 また、理系の学問によって得られる能力が 一的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力 は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものである点も厄介だ。 ある人がどのよう な技術を身につけているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することがで きるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。 さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体 は大半の人にもとから備わっているものである。 人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなく 優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。 人文学は、せいぜいが「涵養」と いう程度のはたらきしかできないかもしれない。 それでは、人文学は社会に対してどのような貢献をしており、どのように役に立っているのか? 幾人かの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考 や想像力を適切に培わなければならない」ということである。 (注1)みたになおずみ たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、著書 『哲学しててもいいですか? 文系学部不要論へのささやかな反論」のなか で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、と論じている。 かんよう (2023AG-F-12) 一国 13-

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現代文 高校生

5️⃣の言ってることが理解出来ません💦 どうしてオノズカラシカリとは作為が無いことになるのでしょうか?むしろあると思うのですが、、

2ndステップ 論理 たかし t うちやま 日本人にとっての自然とは 5 理然 日本人はなぜキツネに 内山 館 テ 筆者が改めて考察している事柄をつかも だまされなくなったのか 攻略のプロセス1・2を通して、《日本人の自然》を《再考察の対象となる事柄をおさえ》たうえで読み取ろう。 日本の人々にとって自然とは、客観的な、あるいは人間の外にある自然体系のことではなかった。それ は自分自身が選っていく場所でもあり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていくもので もあった。とすると、その自然とはどのようなものであったのか。 すでによく知られているように、かつての日本では自然はジネンと発音されていた。 シゼンという発音 が一般的になったのは、明治時代の後半に入ってからである。英語のネイチャー、 フランス語のナチュー 5 ルを日本語にするためにシゼンが使われるようになった。その意味でシゼンは外来語の訳語である。 ジネンはオノズカラ、あるいはオノズカラシカリという意味の言葉である。今日でも私たちは「自然にそ うなった」とか「自然のなりゆき」という表現を使うが、これがジネンと読んでいた時代の意味の名残だと思 えばよい。 このように見ていくと、自然に帰りたいという人々の伝統的な思いは、シゼンに帰るということより、10 ジネンに帰る、つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったことがわかってくる。 オノズカラの ままに生きたい、ということである。 自然(ジネン)訓で読んだときのオノズカラシカリ(ナリ)とは作為がない、ということであろう。有意 ではない、と言ってもよい。 自我のはたらきから生ずる意図がない、あるいは「我(われ)」がない、と表現 することもできる。 (注1) そしてこの気持ちにも仏教が言葉を与えた。人間は自我があるから「我(われ)」にこだわる。 我執のある (注2) ④_ のが人間である。だから「我(われ)」の欲望をもち、「我」を主張して争い、悲しむべき凡夫に堕ちていく。 煩悩は、「我」をもつことそのもののなかにある。だから煩悩を捨てるとは「我」を捨てることだ。そして「我」 を捨てたあり方とは、すべてがオノズカラのままに生きることだ。 オノズカラのままに生きることによっ (注4) (注3) ゆる て、人々を救う。すべての人を。ここで発想は大乗仏教と結ばれる。 もっとも、このように見ていくと、 ジネンという言葉をシゼンと読んだうえで、ネイチャーやナチュー ルの訳語にしたのはかなりダトウだったということがわかる。なぜなら最もジネンなものは自然(シゼン) だからである。自然(シゼン)はすべてがオノズカラのなかに存在している。 シゼンとジネンは同じではな 8. テーマ wwwww... 5

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現代文 高校生

現代文の問題で質問です。 問6のDに入るものを選ぶ問題で答えがアだったんですが、臨時的なものというのはどういうことですか?わかる方いらっしゃったら教えていただきたいです!!

部 イ残された時間と書物 書棚の整理と新たな本 気持ちの傾きと処分 オ 書棚と思い出 〔問題三〕 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 ここでは、いったん習得した知識をいかにしてすて、整理するか、について考える。 家庭でガラクタがふえてくると、すてる。 古新聞古雑誌がたまって場ふさぎになる。 たまってくると、 肩に払ってしまう。これにためらいを感じる人はあるまい。そんなものをとっておいたのでは、人間の住 むところがなくなってしまう。 一般に年寄りはガラクタを大事にする傾向がある。 菓子折の杉箱がみごとだと言って空箱を保存する。 空箱が山のようになる。 若い人はそれをすてようというが、老人はもったいないと言ってユズらない。 新聞雑誌なら古いものはゴミにする人も、書物だと、かんたんにチリ紙交換に出したりしない。 ひょっ とするといるかもしれないという気持が手伝うのであろう。しかし、いよいよ本があふれてくると、パ ニック状態に陥って、何でもかんでもすててしまえ、という衝動にかられる。 よく考えもしないで、手当 り次第に整理する。 さっぱりしたと思っていると、調べものをしていて、あの本に、と目星をつけた本が、売払ってしまっ たあとだったりする。 やっぱり、めったなことでは本を売ってはならない。 などとうそぶい て、 また何でも保存するようになる。 こういう後悔をしなくてはならないのは、日ごろ整理の方法を考えたことがないからである。集めるの であるけれども、すてる、整理するのは、さらにいっそう難しい。 グリ 知識について言っても、習得については、記憶、ノート、カードづくりなどいろいろ考えられているの に、整理についてはほとんど何も言わない。学校なども、知識の学習にはやかましく言うけれども、いっ ぱいになった頭の掃除についてはまったく教えるところがない。 忘却というのが、学習に劣らず、あるい は、それ以上に難しいことを知らずに学校を出てしまうのは、決して幸福なことではない。 ガラクタの整理ですら、あとになって、残しておけばよかったと後悔することがある。まして、知識や 思考についての整理であるから、ひょっとしたら、あとで役に立つのではないかと考え出したら、整理な どできるものではない。 行 くのが忘却である。意識的にすてるのが整理である。 国語 (推薦) 0 からするのは禁物。 A 24 19 知識のあるものはすてなくてはならない。それを自然にハイキして いまかりに、Aの問題について、カードをとったのが一〇〇〇枚になったとしよう。 こんなに多くては 身動きができない。まず、いくつかの項目に分類する。 分類できないものを面倒だからというので、片端 この分類されたものを、じっくり時間をかけて、検討する。急ぐと、ひそんでいる価値を見落すおそれ がある。 ひまにまかせてゆっくりする。 忙しい人は整理に適しない。とんでもないものをすててしまいや すい。 整理とは、その人のもっている関心、興味、価値観(これらはだいたいにおいて同心円を描く)に ものをすて、どうでもいいものを残す愚をくりかえすであろう。 かりに、価値のものさしがあっても、ゴムでできていて、時によって、 よって、ふるいにかける作業にほかならない。 価値のものさしがはっきりしないで整理をすれば、大切な た没価値的 をゆだねられないのはこのためである。 するには、その人間の個性による再吟味が必要である。これは没個性的に知識を吸収するのに比べて はるかに厄介である。 本はたくさん読んで、ものは知っているが、ただ、それだけ、という人間ができるのは、自分の責任に おいて、本当におもしろいものと、一時の興味との区分けをする労を惜しむからである。 えず、在庫の知識を再点検して、すこしずつ慎重に、 をすてて行く。やがて、不易の知識 のみが残るようになれば、そのときの知識は、それ自体が力になりうるはずである。 これをもっともはっきり示すのが、蔵書の処分であろう。 すてるのではないが、本を手放すのがいかに 難しいか。試みた人でないとわからない。ただ集めて量が多いと言うだけで喜んでいてはいけない。 (外山滋比古 「思考の整理学』による) 注① ここでいう「Aの問題」とは、空欄 とは無関係であり、 「とある問題」や「何かの問題」 といった、漠然とした問題を表す意味で用いられている。 かいしょ 傍線部①、②のカタカナの部分を漢字に改めなさい (漢字は楷書ではっきり書くこと)。 問一 問二 イ大は小を兼ねる 卵に目鼻 空欄 A に入るべき言葉として最も適切なものを次の中から一つ選び、記号で答えなさい。 書いた物が物を言う 犬の遠吠え 問三 空欄 B に入るべき言葉として最も適切なものを次の中から一つ選び、記号で答えなさい。 ア頭 イ 手 ウ肉 骨 問四空欄 それでも ウだから それから に入るべき言葉として最も適切なものを次の中から一つ選び、記号で答えなさい。 一方で 問五傍線部③を言い換えたものとして文中で使用されている言葉を、八文字で抜き出して答えなさい。 問六 空欄 に入るべき言葉として最も適切なものを次の中から一つ選び、記号で答えなさい。 無意識に得たもの 臨時的なもの イ関心と異なるもの ウ無価値的なもの 問七次のア~エのうち、本文の内容に合致するものとして最も適切なものを一つ選び、記号で答えなさ い。 ア老人はガラクタを大事にする傾向があるが、価値のものさしができているので、若い人より整理 に適している。 イガラクタの整理が知識や思考の整理より簡単なのは、 没価値的な整理が容易だからである。 ウ 知識が多すぎて身動きがとれなくなったとき、まずやるべきは価値のものさしでふるいにかける ことである。 関心・興味・価値観にもとづいて既有の知識を点検し、手放していくことは、当人の個性にかか わらずに学ぶことより難しい。 H

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