特定の経済政策は、経済学的な認識によって正当化されると考えてきた。あるいは、生
人と
死についての倫理的な決断は、医学的生理学的な知によって支持され得ると信じてき
た。だが、リスク社会は、知と倫理的・政治的決定との間にある溝を、隠蔽し得ないも
のとして露呈させざるを得ない。なぜか?
当たりと考えられてきた
科学に関して、長い間、当然のごとく自明視されてきたある想定が、 リスク社会では
成り立たないからだ。科学的な命題は、「真理」そのものではない。「真理の候補」、つま
仮説である。それゆえ、当然、科学者の間には、見解の相違やばらつきがある。だが、
我々は、十分な時間をかければ、すなわち知見の蓄積と科学者の間の十分な討論を経れ
ば、見解の相違の幅は少しずつ小さくなり、一つの結論へと収束していく傾向があると
信じてきた。 収束していった見解が、いわゆる「通説」である。科学者共同体の見解が、
このように通説へと収束していくとき、我々は、その通説自体がいまだ真理ではな
いにせよ真理へと漸近しているのではないかとの確信を持つことができる。そして、
このときには、有力な真理候補である通説と、政治的・倫理的な判断との間に、自然な
含意や推論の関係があると信ずることができたのである。だが、リスクに関しては、ご
うしたことが成り立たない。
S
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「科学に関して、長
い間、当然のごとく
自明視されてきたあ
る想定」とは、どの
ようなことか。
というのも、リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないいく
しゅうえん
傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期
間に何度くらい温暖化するのか、我々は通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の
遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至る破
局に連なるのか、いかなる科学的な予想も確定的ではない。学者たちの時間をかけた討
論は、通説への収束の兆しを見せるどころか、全く逆である。時間をかけて討論をすれ
ばするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見
解の間の分散や悪隔を拡張していく傾向がある。このとき、人は、科学の展開が「真理」
への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。さらに、当然のこ
とながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による
裏づけを持っているとの幻想も持つことができない。知から実践的な選択への移行は、
あからさまな飛躍によってしか成し遂げられないのだ。
八たり
↑
国以上の考察は、 リスク社会をもたらした究極の要因が何であるかを示唆している。リ
スク社会論を唱える論者はウルリヒ・ベックやギデンズ、ルーマンらは、二つ
の要因をあげるのが通例である。第一に、つまり近代社会が、自然を固定的なものと見
なさずに、自然を制御することを選んだことそして、よりいっそう重要なこととして、B
第二に、依拠すべき伝統が崩壊したこと これらの要因があげられてきた。要するに、
評論
リスク社会とは何か
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