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現代文 高校生

5️⃣の言ってることが理解出来ません💦 どうしてオノズカラシカリとは作為が無いことになるのでしょうか?むしろあると思うのですが、、

2ndステップ 論理 たかし t うちやま 日本人にとっての自然とは 5 理然 日本人はなぜキツネに 内山 館 テ 筆者が改めて考察している事柄をつかも だまされなくなったのか 攻略のプロセス1・2を通して、《日本人の自然》を《再考察の対象となる事柄をおさえ》たうえで読み取ろう。 日本の人々にとって自然とは、客観的な、あるいは人間の外にある自然体系のことではなかった。それ は自分自身が選っていく場所でもあり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていくもので もあった。とすると、その自然とはどのようなものであったのか。 すでによく知られているように、かつての日本では自然はジネンと発音されていた。 シゼンという発音 が一般的になったのは、明治時代の後半に入ってからである。英語のネイチャー、 フランス語のナチュー 5 ルを日本語にするためにシゼンが使われるようになった。その意味でシゼンは外来語の訳語である。 ジネンはオノズカラ、あるいはオノズカラシカリという意味の言葉である。今日でも私たちは「自然にそ うなった」とか「自然のなりゆき」という表現を使うが、これがジネンと読んでいた時代の意味の名残だと思 えばよい。 このように見ていくと、自然に帰りたいという人々の伝統的な思いは、シゼンに帰るということより、10 ジネンに帰る、つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったことがわかってくる。 オノズカラの ままに生きたい、ということである。 自然(ジネン)訓で読んだときのオノズカラシカリ(ナリ)とは作為がない、ということであろう。有意 ではない、と言ってもよい。 自我のはたらきから生ずる意図がない、あるいは「我(われ)」がない、と表現 することもできる。 (注1) そしてこの気持ちにも仏教が言葉を与えた。人間は自我があるから「我(われ)」にこだわる。 我執のある (注2) ④_ のが人間である。だから「我(われ)」の欲望をもち、「我」を主張して争い、悲しむべき凡夫に堕ちていく。 煩悩は、「我」をもつことそのもののなかにある。だから煩悩を捨てるとは「我」を捨てることだ。そして「我」 を捨てたあり方とは、すべてがオノズカラのままに生きることだ。 オノズカラのままに生きることによっ (注4) (注3) ゆる て、人々を救う。すべての人を。ここで発想は大乗仏教と結ばれる。 もっとも、このように見ていくと、 ジネンという言葉をシゼンと読んだうえで、ネイチャーやナチュー ルの訳語にしたのはかなりダトウだったということがわかる。なぜなら最もジネンなものは自然(シゼン) だからである。自然(シゼン)はすべてがオノズカラのなかに存在している。 シゼンとジネンは同じではな 8. テーマ wwwww... 5

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現代文 高校生

サイボーグとクローン人間という作品の意味段落分けの仕方が分からないです。本文全てを載せてあります。解説お願いします!

サイボーグとクローン人間 山崎 正和 テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがに生々しく、 改めて文 明の行方について考えさせられた。 研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みで ある。 外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が磨かれている。 脳の働きをするコンピュータ がさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。 もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で置き換え、脳と機械を直結するサイボーグを造ろうという動き である。 これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、 肩の筋肉の指令を受けて動く精妙な義手が発 明されている。 光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、衰えた脳の中に記憶装置を埋め込む研究も 行われている。 この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけをそのままに残し、四肢や内臓のすべてを機械で 補強する、人間改造計画に行き着くことになるらしい。 見ていて不思議だったのは、現場の研究者も評論家もこうした研究にきわめて楽天的だということである。 ク ローン人間の研究にはあれほどの嫌悪を示し、 大統領の禁止勧告まで生んだこの国の反応とは対照的だというほ かはない。 クローン人間を忌避させているのは、人間を神の被造物と見るキリスト教の思想だろうが、 その禁忌 が機械的な人間の製造、あるいは改造には及ばないことが、印象深いのである。 合理的に考えれば、 クローン人間の誕生はおよそ非人間的な事件ではない。 それは子が親と同一の遺伝子を持 って生まれることであるが、同一の遺伝子の共有は必ずしも個性の否定にはつながらない。人間の個性は環境や 教育に左右されるところが多く、遺伝子だけで決定されないことは、自然の一卵性双生児を見れば明らかだろう。 さらにクローン人間は人造人間ではなく、卵細胞と体細胞、それに子宮を提供する人間の親がいることを忘れて はなるまい。 そこには当然、家庭が生まれ、親子の愛や葛藤も芽生えるはずであって、子どもが感情の砂漠の中 で育つ心配は少ないのである。 しかもクローン技術が人間に適用される場合、 それが優生学的改良に直結する懸念もかなり薄い。 ある能力を 持った遺伝子が複製されても、能力が強化される理由はなく、それがそのまま子どもに現れるという保証もない。 そこには再び教育の手が加わる必要があるはずだが、その過程で子どもが自我に目覚め、先天的な素質を裏切る 可能性もあるからである。 これに比べると、ロボットやサイボーグははるかに人間の恣意に従いやすく、特定の価値観や世界観の奴隷に なる危険が高い。 肉体の腕よりも強い義手は、 強いことはよいことだという思想の実現であり、より多く環境を 支配したいという無意識の願望の反映だといえる。 脳内に記憶装置を埋め込めば、思い出も忘却も意志の力で操 作することになり、人間は自分の過去すら自分で構築することになる。 クローン技術は生命の法則に対しては受動的であって、細胞核を入れ替えた後の過程に手を出すことはできな い。だが、身体を機械で置き換える技術はどこまでも能動的であり、細部まで人間の思うとおりに造り上げてし まう。しかも注意すべきことは、そうして造り上げた身体はやがて逆転して心に影響を及ぼし、人間の考え方、 生き方を思いがけぬものに変化させるということである。 人間の心がいかに身体の影響を受け、 身体と一体になって生きているかは、毎日の生活の中で実感することが できる。 病気になれば悲観的になり、運動能力が高まれば世界を見下すような気分になる。 これまでも身体の延 長として道具を使いこなし、 機械を発達させたことで人類はどれだけ傲慢になったことだろうか。 もし将来、自 分の身体そのものを機械化して数倍の力を持ち、あるいは人体に似た機械を召し使いにできたら、 人間は自分を 神か超人のように思いなすのではないだろうか。 それが倫理的によいとか悪いとか、今日の文明の中で即断することはできない。 身体が機械になり心が神にな れば、そのときは文明の全体が変わっていて、倫理のものさしも変わっているかもしれない。 しかし確かなこと はこの変化は深刻であり、 二十世紀までの文明を終わらせるおそれさえあるということである。 興味深いという より恐ろしいのは、 現代人がその可能性を十分に自覚しておらず、その無自覚がクローン人間には厳しく、サイ ボーグには甘い価値観のよじれに現れていることなのである。 紛れもなく、サイボーグ肯定の思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。 もっといえば、心と身 体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。 実は二十世紀後半の哲学はこれに疑問を投げかけ、 心と身体の一体性、相互作用を重視するようになった。 しかし、科学者を含めて大多数の現代人はまだこの二元 論を信じていて、身体を取り替えても心の同一性は守れると感じている。加えて心は脳の専有物だという、 古い 常識から逃れられないでいるのである。 その上に大きいのは、現代人が個人の福祉を絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていること である。 障害者や高齢者に補助器具を提供し、 身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うこ とはできない。現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、 そうである限りこの研究を 現代文明は非難することができない。 一方、 まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというク ローン技術には、当然この世論の追い風がないのである。 だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。 誰しも自分の身体を十分だとは 思っておらず、 十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかは誰も知らない。ただ人並みに生きたいと いうつつましい願いが、とかく人並みを超える競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明ら かだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「超人」を生むのだろうが、それはニーチェの反俗思想ではなく、 平 的生活を求める庶民のいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。 こんなことを考えながら、私はべつに警世論を張っているつもりはない。 いつの時代にも文明は変わるもの であるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。 ただおもしろいと思うのは、文明を変える ものが必ずしも冒険的な好奇心ではなく、ある時代に最も常識的な、社会の通念でありうるという逆説である。 人々が「危険」な好奇心を警戒しているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとを隠してしまう。それが 人間の悲しさというべきか、それこそが尽きない魅力の源泉だというべきだろうか。

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高一の国語の文章です。 なぜ最後の方の赤線を引いている感情に急になってしまったのか分かりません。文章の流れ的にもう赤線部のように感じなくなっているのではないですか?

すが ひから www 余は好意の干乾びた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感じた。 人が自分に対して相応の義務を尽く してくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも 何でもない。従って義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、カンシャの念を起こしにく い。それが好意となると、相手の所作が一挙一動悉く自分を目的にして働いてくるので、活物の自分にそ の一挙一動が悉く応える。其所に互いを繋ぐ暖かい糸があって、器械的な世を頼もしく思わせる。 ことごと いきもの 義務さえ素直には尽くしてくれる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌に尽くしもしない世の中 ぜいたく んな贅沢を並べるのは過分である。今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、 悉く「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切り詰められたのである。 こうは解釈するようなものの、イゼンとして余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく 感じた。自分が人に向かってぎごちなく振る舞いつつあるにもかかわらず、自らをぎごちなく感じた。そ o かか こ うして病に罹った。そうして病の重い間、このぎごちなさを何処へか忘れた。 かゆ さじ すずめ からす 看護婦は粥を鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か鳥の子のような 殆ど五日目位ごとに、余のために食事の献立表を作った。 ほとん えら ある時は三通りも四通りも作って、一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした。 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事は勿1 ろん もっ 論である。彼らを以て、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的 で、実も蓋もない話である。けれども彼らの義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から 透かして見たら、彼らの所作がどれほど尊くなるか分からない。病人は彼らのもたらす一点の好意によっ て、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。 子供と違って大人は、なまじい一つの物を十筋二十筋の文から出来たように見窮める力があるから、生。 活の基礎となるべき純潔な感情を恋に吸収する場合が極めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがた かった、本当に尊かったと、生涯に何度思えるか、カンジョウすればいくばくもない。たとい純潔でなくても、 自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中に保存したいと願っている。 そしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのを切に恐れている。 ―好意の干乾 びた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感ずるからである。 い * DSQUY CU 心持ちがした。医師になるに連れて、 ろく uta+ 3-2-1 54 6

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現代文 高校生

基礎現代文1+の11から20までの答えを見せてもらいたいです。 お願いします!

29 ステップ2 評論 []]] ② H 患者の悩み の違い 4 「個」に対する 考え方の違い 対人関係の あり方の違い の違い 【8】 ステップ2 基礎力を向上させよう かがおとひり ●読解 日本人の「個」や「対人関係」を考えてみよう 課題 同内容の記述に注目して読み進めよう 不幸な国の幸福論 加賀乙彦 (注) 心を痛め、 悩ませること。 1腐心 2個人主義 集団よりも個人に価値 日本人の本質が集団主義的かどうかはさておき、日本が欧米よりも「みんな」に自分を合わせることを強 いられる社会であり、 日本人が他者の目を強く意識するがゆえに周囲の人と同じような行動をとる傾向が 強いのはたしかでしょう。 そういう社会では、当然のことですが「個」が育ちにくい。 これは、私自身、フ ランス留学時代にいやというほど思い知らされたことでもあります。 留学する前の私は、独立した一個の 人間として確固たる自我をもち、自分というものをしっかりと主張できているつもりでいました。ところ 5 が、フランスに行ってみたら、私の「個」なんてものは、まだまだへなちょこだと気づかされた。 をおく考え方。 3近代的自我― 理性的な「わたし」。 4先ほど・・・本文直前をふまえた記 述。 なお、筆者は精神科医であり、 「統合失調症」は精神疾患の一種。 要旨をつかむために! ▼空欄を埋めていこう 【各2点】 ○文章展開図 向こうでは、まだ駆け出しの医師がコウメイな指導教授に堂々と反論します。 会議はもちろん、親しい 仲間同士でテレビ番組について論じているときでさえ、だれもが「私はこう思う」と主張し、意見が食い違 えば猛烈な論戦になる。 日本人の場合、 テレビ番組の感想程度なら、そんなことで関係を悪化させたり、 せっかくの楽しいフンイキを壊したくないと、 どちらかが相手に合わせるか、適当なところで折れあうの が一般的です。 会議などで反論するにしても、相手とぶつかって関係が悪化することのないよう言い方に 腐心する。ところがフランス人ときたら、遠慮会釈なく、がんがんぐいぐい押しまくるのです。 日 本 ( 欧米よりも) ・・・「みんな」に を 合わせることを強いられる ↓ 「個」が育ちにくい」 ・日本 相手に合わせる 3 とはいえ彼らの場合、激しく意見を戦わせあっても、人間関係が壊れるようなことは、まずありません。 会議が終わればそれ以上は引きずらず、「今日はいい議論ができた。 まだ結論が出ていないから、次回に続 きをやりましょう」などと互いを認めあう。 逆に、周囲に気をつかってはっきり自分の意見を言わない人間 15 は、軽んじられたり、何を考えているかわからないと気味悪がられてしまいます。 (注2) ・フランスー遠慮会釈ない さまざまな民族や文化がせめぎあいながら国家というものを形成してきたヨーロッパでは、個人主義や 近代的自我といった言葉が生まれる以前から、大勢の人間のなかで埋没してしまわないため、生き残って (注3) いくために、自分を主張することが求められてきたのでしょう。さらに近代に入ると、それぞれ「個」とし 自立した人間同士が互いの意見や好みを主張しあって相互理解を深めていくことで人間関係が成立する 20 のだという考え方が、欧米人のベースとなっていきます。 ・・・民族や文化がせめぎあう 「個」として自立した人間 主張 相互理解 人間関係が成立 先ほど、統合失調症の人の訴えが日仏で違うという話をしました。日本で「みんなと違ってしまった」と 悩む患者さんを見慣れていた私は、フランスの患者が「自分の個性が失われ、人と同じになってしまった」 と嘆くのを聞いて、最初、キイに感じたものでした。 しかし、その違いはまさに、 彼らとわれわれの「個」 ⑤ 日本の患者 みんなと違う 大きくとらえよう に対する考え方、対人関係のあり方が顕著にあらわれたものだったのです。 ◆要約への第一歩 【2点】 ガイドの 2行目の「他者」や「周囲」を意識する人々のあり方が、別の表現で書かれた箇所に線を引こう→問四を攻略 話 題(筆者 の主張) 欧米よりも「みんな」に合わせる ことを強いられる日本社会 問一 漢字 傍線部⑦~エについて、カタカナは漢字 問五内容 傍線部 ③ 「「個」として自立した人間」とは、 で、漢字はその読みをひらがなで書け。 各 が育ちにくい どのような人間だと言えるか。 ①段落中の語句を 用いて、三十字以内で書け。 ① 理解を深めよ う 要約のための確認【⑥⑨ 各2点】 話題(筆者の主張) 日本 欧米よりも「みんな」に合 わせることを強いられる 問二語句 波線部Aについて、「せめぎあう」の意味 として、最も適切なものを、 次から選べ。 【4点】 ⑦7 助けあう - 高めあう 罵りあう 新傾向 ...日本人 が育ちにくい ○筆者の注目している点 争いあうまじりあう 問六読解 傍線部④について、日仏の患者の違いは、 どのようにして生じるのか。 次の図の空欄を補う のに最も適切な語句を、後の選択肢から選べ。 日本人 に合わせる 問三指示傍線部 「そういう社会」とは、どのよう な社会か。 次の一文の空欄に、漢字二字の熟語を 補い、文を完成させよ。 【5点】 フランス人 +1:] 激しく意見を戦わせる ・欧米人のベース ○欧米に比べて、人々が周囲に合わせ行動するこ とを、 される社会。 自立した人間が主張しあう ⑦ 社会的な背景 M 個人的な能力 →相互理解を深める ⑦ 議論の方法 自我の定義 ( 言語の特性 が成立 【8点】 問四〇課題 傍線部②のような日本人の姿を目にすれ ば、フランス人は、どのような態度をとると考え られるか。 適切なものを、 次から二つ選べ。 問七構成 本文の特徴を説明したものとして、最も適切なものを、 次から選べ。 各 ⑦ 日本人の特質を、経験にもとづく事例をふまえて欧米と比較し、分析している。 M 日本人の抱える問題点を挙げ、欧米の事例を参考にその解決法を提案している。 (⑦) 日本人と欧米人の違いから、それぞれの社会の形成過程の違いを明らかにしている。 ⑦ 賞賛する M 不信感を抱く (⑦) 軽視する H敬意を払う (見習おうとする ④ 日本人の人間関係に関する一般論を批判しながら、独自の見解を述べている。 日本人の対人関係について、具体例を取り上げて問題点を明らかにしている。

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もし問2の問題が15字以内という指定がなかったら、 線を引いた「転向は道徳的にいかがわしいと感ずる意識」を抜き出しても丸でしょうか?

5 評論 20 43 田 来 R 2 日本的思考は、しばしば、模倣をこととする雑居性を特徴とするといわれる。それは、かつては中国を 模倣し、近代では西欧を模倣したといわれる。それがひどくいけないことのようにいわれるのは、 空欄に適当 異化である。差異と反復が模倣の本質である。そうなると、模倣と独創との差異の境界はきわめて小さく なる。西欧諸国の文化は、ギリシアとローマの差異化的模倣である。日本の場合にも同様に、中国と西欧 の差異化的反復である。差異化には、何らかのオリジナルな改作的工夫が必要である。 日本では、I_、儒教を儒学に変換し、宗教性をできるかぎり払拭して、操作可能な「知識」へと改 作する。これは日本におけるひとつの独自な特徴である。キリスト教であれ何であれ、宗教性がなくなる わけではないが、宗教性は、他国にくらべて限りなく小さくなる。日本では、宗教的イズムが、宗教戦争 なしに共存できるが、それは諸宗教がいつのまにか操作可能な、道具性の知識に転換しているからである。 またそのゆえに、日本では、ある宗教イズムから他のものに容易に転向できるのである。転向は道徳的に いかがわしいと感ずる意識は、純粋主義のイデオロギーのなせるわざであり、日本人は古来つねに転向を やり続けてきたのである。古代における中国文化の導入はひとつの転向であったし、そして近代における 西欧との出会いは、中国文化から西欧文化への転向を劇的に実現した。すべてを道具的な操作可能な実用 知に変換すること、これが日本の文化の雑居性を生みだす原因、いやむしろ精神の鋳型である。 しかし雑居は、そのままでは雑種性にいたりはしない。たしかに雑居を許す文化は、雑居を許さない純 粋主義文化よりも、雑種性を生む可能性は高い。 動的に雑種を生むわけではない。われわれは、雑居環境を存分にいかして、雑種文化という本来の文化の ありかたにいたる道を構想しなくてはならない。 雑居は他者の文化を変換する装置が作動した結果をさす用語であり、雑種は精神の創造力に関わる用語 である。雑居性は雑種の精神なしにも可能であり、雑居はかならずしも雑種の精神に通ずるものではない。 雑種の精神がないままに、他者の文化との出会いを喜び、それを実用知に変換するだけでは、雑居的流行 しか生まれないであろう。日本人がタイテイやっているのはまさにこれだ。日本人は一般に、雑居性のなか に雑種性を溶解し、雑種の精神を自覚的にバイヨウすることを無視してきたと思われる。 tすは純粋なるものがいかに空虚であるかを自覚してかからなくてはならないだろう。なぜなら、か「2 日本的 居性を特 質は一 |による。模倣は簡単なことではない。改作なしの模倣などどこにもない。反復はかならず差 5 日本 欧文化 換する 立した 主張 =それはあくまで環境ないし条件ではあっても、自 力に M w w. て一度も、純粋な文化も、純粋な精神も、存在したことはないからである。なるほどI? 紙の思想家

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勘定すればいくばくもない の意味を教えてください🥲🥲 イメージがつかなくて💧

感じた。自分が人に向かってぎごちなく振る舞いつつあるにもかかわらず、自らをきこちなく しオ うして病に擢った。そうして病の重い間、このぎごちなさを何処へか忘れた。 看護婦は粥を鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か鳥の子のような 心持ちがした。医師は病の遠ざかるに連れて、殆ど五日目位ごとに、余のために食事の献立表を作った。 ある時は三通りも四通りも作って、一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした。 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事は勿 論である。彼らを以て、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的 で、実も蓋もない話である。けれども彼らの義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から 透かして見たら、彼らの所作がどれほど尊くなるか分からない。病人は彼らのもたらす一点の好意によっ て、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。 子供と違って大人は、なまじい一つっの物を十筋二十筋の文から出来たように見窮める力があるから、生 活の基礎となるべき純潔な感情を 恋 に吸収する場合が極めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがた」 かった、本当に尊かったと、生涯に何度思えるか、一カンジョウすればいくばくもない。たとい純潔でなくても、 自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中に保存したいと願っている。そ うしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのを切に恐れている。 がた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感ずるからである。 *リ かか すずめ たい み そ ほとん p0 ほしいまま ww -好意の干乾 間一- 傍線部1とあるが、どう「解釈」したのか。最 |N0 前者は金銭的報酬とかかわっているが、後者は も適当なものを次から選べ 今の世の青年たちの「自我の主張」を、警沢だ と受け取ってはならない。 そうした報酬とは一切かかわりがない。 前者を受けてもありがたいと思 る、 世の

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空欄を教えてもらいたいです お願いします

次の文章の空欄1~0に で記入せよ。 出 S 除 出年を示す。 や細かく分けておいた。 なお、近代を、さらに近 代、現代と二分する考え 方もある。その場合、ど こで区分するかについて は、次の二説がある。 徳川の幕蕃体制が崩壊し、明治政府が誕生した明治元年(一八六八) く六七) から今日までを近代と呼ぶ。 八七〇) 近世から近代へ。近代文学の出発を考えるうえでは、@近世文学との関係、 外国文学·思潮の影響、@日本の近代化の内実、の三点に注目する 必要がある。近世において文学は、戯作などの大衆の文学と、儒学な どの思想に代表される知識人の文学に分かれていた。近代に入って知 (C編) 近代= 大正末、関東大震 災(一九二三)ごろま 人ニ) ハミ) 識人たちは大衆の文学がもっていた虚構の有効性に注目し、政治的近 P。 現代 = プロレタリア文 代化の思想を広めようとする1 体系として文学を位置づけようと努力した。こうして、大衆と知識人 日) を作り出した。また一方で学問の 学·新感覚派以降。 H) (B説) 近代 = 第二次世界大戦の 終戦(一九四五)まで 現代=第二次世界大戦後 五) とに分かれていた文学は、交流した形をとることになる。 次に重要なのが外国文学の影響である。鎖国から解き放」 たれた人々の間に、あたかも堰を切ったかのように外国の文学が流入 明治中期の文学 ル) してきた。それは初期には2 という形で紹介され、次いで文学理 論、実作の面での消化吸収が行われ、「新体詩抄」「小説神髄」などが 明治初期の翻訳文学 『伊普物語」(明六) イソップ物語 ;ャ D) 試みられ、さらには本格的な近代文学を担う、森鴨外、二葉亭四迷、 あらびや へ 「暴夜物語」(明八) .『アラビアンナイト」 「八十日間世界一周」 (明一1)…ベルヌ原 北村透谷らに深い影響を与えている。 1) こうして知識人に認められた文学が、外国文学から力を得て実質的 1) に作品化されるとき、対象化されたのが未成熟な日本近代の内実だっ

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問3の問題に当てはまる語が分からないので教えてください

Stepに 日いまの社会では、「A」「自目分の個性を全面的に表現せよ」といった、「自我を断片化して使い分ける」 ことに対するきびしい禁忌が幼児期から働いている。そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の 局面での私」というものを切り離す能力は育たない。そして切り離せない以上、「もっとも傷つきやすく、もっ B に欠け、もっともC を欠いた私」なるものがあらゆる場面でまっさきにロシュツしてくるこ とは避けられないのである 2最近の若い営業マンの中には、仕事上のきさいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。それが え S- 5 商取引という D 的な人間関係におけるできごとである、ということが理解できず、業務上のシッタイに ついての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。 3学級での居づらさもそれと同じである。教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にい る自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。「教室で屈託している私」と「それと は別の世界でのびのぴ活動している私」を適切に分離できれば、システムの不調によって人格がまるごと損な v「~ われることはない。 国これらの症候はいずれも「限定され、断片化された『私』を ユライする 5私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議に思って" か、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた 固あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」なの。あれは私がつくった 「キャラ」である。あそこで私が「..…した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かをセンタ クし、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なのである。「私」はと語っている「私」は 私の「多重人格のひとつ」にすぎない。そういう簡単なことが分からない人がたくさんいる。私が匿名でもの0 を書かないのは、そのせいである。 7私は匿名で発信する人間が大嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本名の 自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているその人の妄想のありかた 的に演じる」訓練ができていないことに

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現代文 高校生

答えがなくて合ってるかどうかわからないので困ってます。 漢字の部分は大丈夫なので気が向いたら見にくいですけどどなたか採点してくれませんか?答えが合ってるかどうかだけでいいので…。

【1】 次の文章を読んで、後の問いに客えなさい。 禅の問答の中に「大河の流れに流されるもよし、逆らうもよし」という1有名な問答があります。自然の流れに身を任せてい ることさえも、実は一A 的な生き方だという考え方です。自然は手を加える必要がないほど完壁な素晴らしい秩序だというこ とが背景にあるのです。ですから、“グちることも美しいことだと考えるのです。死ぬことも美しいことだと考える。生きるこ とが素晴らしくて、生きることに失敗して死ぬのではなくて、死ぬことも生き方の形として素晴らしいことなのだというのが 2この思想です。 あ 。 大乗仏教の教えるところの"他カとも似ています。そこから必然的に仮の人生、仮の姿、生きているのも死ぬのも、みんな たまたまそうなのだということ、そして、明日はまた違うよということを、当たり前に認めようという考え方です。この住いは 仮であって本物は別にあるという仮ではないのです。この意識が日本人の心の深層をつくっていると思います。桜は満開を狙っ て見に行きますが、それは満開が散り始めだと知ってのことです。散り始めた瞬間のほうが好きなのです。日本人は散ることの ほうが、美しいと思っている。移り変わることが、死をもふくんで美しいのです。 抗わないで流される美しさ、それが「仮」の意味です。 茶室では、くずれた土壁を塗りなおして真新しい状態にもどそうとはしません。くずれたら鰻で修理し、幾の跡をそのまま残 します。土壁に見かける波形模様はデザインではないのです。壕れて穴があいてしまったから、塗り直したという”単なる修理 の跡です。修理の跡にも美しさを感じているのです。茶渋のついた碗も、汚れを適度に残して取り除きます。庭の落ち葉もす xつかり掃いてしまうのを嫌い、心地よく昔の上に散った落ち葉を楽しみます。金継というものもあります。欠けた茶碗を金でつ 2いでそれを楽しむ。修理あと、壊れたことさえ美としてとらえてしまうのです。木が風雨にさらされて年輪が凸凹に浮き出てく る。自然と融合して侵食される住いが美しいのです。 る。 *ル *た RS PRJや 輪廻転 生ということでしょうか。今の住いは仮ずまい、この人生も仮の人生ということです。これは、本当のすま いと本当の人生が訪れるまでの仮だというのではなく、家も人生もしょせん仮であって、それが嬉しいということなのです。宇 宙の摂理が統べるこの世界のすべてを受容しようという感覚がこの「仮」の美意識の背後にあるようです。 日本の家屋の屋外と屋内の連続性は、西洋人には理解できないほどにしジンジョウではありません。屋内はほとんど屋外であ るかのように開放的であり、屋外と一B 的で同格です。この開放感はほとんど仮設物であるかのようです。どこからどこまで が屋内かということさえはっきりしない。木と竹と土と紙でできている日本の家屋の明かり障子や 拠は外してしまうことができ ます。外してしまうと庭から部屋まで、部屋から部屋まで、全く連続してしまいます。 襖を開け放したり、移動すれば、4大きな空間ができて、2冠婚葬祭などのいろいろな使い方が可能です。田舎の我が家でも、 襖を外して数十人という客を招き、大きな法事をしたりしました。こんな透け透けで自在なのが日本の空間なのです。日本の家 屋では部屋というものがありません。·風や襖で仕切ってあるだけですから、部屋の概念がないのです。客間、居間、茶の間と」 仮の用途があっても、目的を限定していないのです。座布団や夜具やお膳などのちょっとした道具を置くことで用途が変わる。 すべての使い方が仮であり、それがすべてなのです。屋外と屋内も区別なんかしていません。内部空間と外部空間を対立概念な んかでとらえていません。庭も家の一部であり、融通無得なのです。 連続的に外につながる掃き出し窓 (=室内のちり、ごみをはき出すために床と同じ高さに設けた窓)は、日本では当たり前ですが、ヨー ロッパにはそんな窓はありません。そもそも日本家屋には、西洋でいう「窓」がないのです。西洋の家は石造のため、採光や通 風のために壁に穴を穿って「窓」をつくりました。「窓」は壁があって初めて成立するものなのです。ところが日本の家屋は壁の 建築ではなく、柱 梁 の建築であり、壁というものを持ちません。だから当然、屋内と屋外は連続的なのです。その内外の中間 に設けられた明かり障子が、近代になって掃き出し窓になったのです。日本家屋の特徴をほとんど残さないマンションにさえ、 掃き出し窓はあります。それほど8日本人は( 床から天井まで透明感のある被膜のような窓は現代建築でも多用されますけれど、日本人にとっては近代建築の流れであると いうより、明かり障子の感覚から生まれた開放性だといったほうがいいでしょう。 屋内と屋外を連続した空間にとらえる日本人にとって、屋内は屋外の一つのかたち、自然の一つのかたちでしかないのです。 家屋も自然と同じように、 の時の流れとも一つになっている感覚なのです。 西洋の建築とはあまりに違う日本の家屋。 けない重要な課題です 明治以後長い間、日本は西洋の思想を絶対視し、盲目的に生活のすべてに西洋化を図りました。茶道までも西洋化をして、立, 礼という椅子式のお点前を生み出しました。建築の教育でも、営々たる歴史をもつた大工の建築技術ではなく、西洋のものばか」 りを教えてきました。住宅では畳にカーペットを敷いてベッドを置き、思想面でも自由や自我や哲学を学び、日本の思想を塗り」 )を欲しているということでしょう。 x すると考えていたのでしょう。「仮」の美意識とは自然と一つであるという感覚であり、自然 日本の家屋は果たして建築か sという問いは、どうしても明らかにしなければい ミ 全へ

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