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現代文 高校生

この文章は、現代文の先生が作ったもので、最低三か所、文章を批判しないといけないです。ポイントは以下の通り。 ・説明の順番は適切かどうか。 ・余計な内容の文章が入っていないかどうか。 ・説明が不足している部分があるかどうか。などなどです。 1つは自分で批判出来たのですが、あ... 続きを読む

電気自動車は本当にエコカー? ガソリンで走る車が世界から消えてしまう日が、そう遠くないことを皆さんは知っているだろうか。世界中 の道路が電気自動車で埋め尽くされる時代が来る。 EU、 中国、アメリカなどの国々は2050年までにゼロエミ ッション車のみの社会を実現しようとしており、日本も2030年代半ばにはガソリン車の販売を禁止するという 目標を掲げている。 ガソリン車がなぜ世界中から排除されようとしているのか。それは地球温暖化の抑制を目 的としている。車を動かすためにガソリンを使用すると、大量の排気ガスや二酸化炭素を放出する。 排気ガス は環境を破壊し、二酸化炭素は温暖化を加速させる温室効果ガスの代表である。 それに対し電気自動車は排気 ガス二酸化炭素を排出しない。 世界が電気自動車化を進めるのももっとものように感じる。 しかしそれは、 ガソリン車のデメリットばかりに注目した結果生じたものであり、電気自動車のデメリットを見落としてしま ってはいないであろうか。 近年、電気自動車がたくさん製造され、 補助金等の制度を使えば、ガソリン車よりは高いが比較的安い価格 帯で電気自動車を購入することができる社会になった。先述のように、電気自動車は二酸化炭素を排出しない 上に、エンジンを駆動させるガソリン車とは異なり電気でモータを動かすため、走行時の騒音や振動が気にな らない。しかし、デメリットもある。一つ目が充電の問題である。電気自動車の充電ステーションはまだまだ 普及しているとは言えず、また充電にかかる時間も非常に長い。充電が満タンの状態でも、ガソリン車と比較 すると走行距離が半分程度しかないのが現状である。これでは遠出する際にバッテリーに対する心配がつのる し、また充電が切れてしまう可能性もある。二つ目に、根本的問題である二酸化炭素の排出量の問題である。 確かに、電気自動車は走行時に二酸化炭素を排出しないが、実はガソリン車よりも二酸化炭素を空気中にまき 散らしてしまっている場合がある。それは車が作られる段階、製造時だ。 電気自動車の部品を作る際、 ガソリ ン車よりも多くの二酸化炭素を排出してしまっていることがボルボ社の発表により明らかになった。 街乗り用 で車を持っており、十万キロ程度しか走らせないとなると、かえってガソリン車より電気自動車の方が二酸化 炭素を多く排出している計算になる。 また、走行時に二酸化炭素を排出しないが、火力発電によって電気がつ くられているため、発電の際には二酸化炭素が発生している。 これではゼロエミッションとはとうてい言うこ とができないのではないか。 最後に電気自動車の部品に使用されるレアメタルの問題がある。 バッテリーに使 用されるコバルトの主要産地はコンゴであるが、その生産・精製のために水質汚染や土壌汚染などの環境問題 が深刻化している。それだけでなく、 児童労働の疑いもあり、人権問題に発展してしまっている。これではと ても理想的な世界を実現することができないのではないかと疑問を持つのは決して私だけではないだろう。 電気自動車を世界に普及させるには、充電の問題や環境問題 人権問題を解決するとともに、製造時などに 二酸化炭素を排出させないように技術を進歩させる必要がある。 技術を進歩させ、バッテリーの容量を増加さ せることもガソリン車に追いつく一つの課題である。人々はあるものの良いところ、もしくは悪いところの一 側面だけで物事を判断せず、様々な事象を包括的にとらえて判断をしなければならない。そーおもわない? 良いところ・改善したほうがいいところ 世界中の道路が電気自動車で埋め尽くされる日が来る。と言いきっているが 説明がその下に書かれていない。

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現代文 高校生

問4と問5の解説お願いします。 答えは④,①です。 わかる問題だけでも構いません。

0コ0コ ロロ同 のようなテーマが彼らにとっては全く「中立」に映らないだろうということです。もし私たちにとっ でその主題が「中立的」に見えるとしたら、それは私たちが「民主主義は当然のこと」という価値観 が普及した地域にいて、他の価値観をさほど想定せずに済んでいるからです。 理系が関わる例でも事情は変わりません。一九七○年代~八○年代の日本では、環境問題を研究テー ーマに選ぶ理系学生は民間企業での就職が大変になるといわれていました。マジョリティが環境問題」 に関心がなかった時代、敢えて環境に関心を持つことは「偏ったこと」とみなされかねなかったので」 す。現代ならこの感覚はむしろ逆でしょう。 「地球環境を気にかけること」も「民主主義を自明視すること」も、それぞれ一つの価値観であり、 政治的信念の一種です。ただ、その価値観がマジョリティにとって一般的になっている時代、地域で一 はそのことが目立たないだけです。 の うん。 もちろん、「テーマの選択が政治性を持つ」ことは仕方ないにしても、それは研究の過程に政治性が一 入り込むこととは違うのではないか、という指摘は可能です。 たとえば、公害問題や、歴史上の虐殺事件といった問題に対し、ある組織や人物にとって不利にな」 る証拠を隠蔽した上で論文を書いたとしたら、それは「政治的」かつ「党派的」なデータの隠蔽です し、研究不正に等しい行いです。 論争になりやすいのは逆のケース、すなわち証拠として用いる材料を広げる場合です。たとえば、 教育を受けた役所の人間が残した文書記録や、定量的に計測可能な証拠といった従来も用いられてい た判断材料だけではなく、知的障害をもつ人の数十年前の記憶や、コンピュータによるシミュレーシ ョンなど、確実さにおいて劣る要素を持ち込む場合、前者は「実証的」だが後者は違うとして、拒否」 されることがあります。そして、そのような不確かなものを研究の材料に使うのは、政治的な意図が あるからだと。キュウダンされたりするのです。 事例ごとに事情は違うので、一般化は困難なのですが、科学史を踏まえて私が思うのは、どちらか といえば、検証する対象を増やす方が、検証の厳密さを求めてそれを避けるよりは実りが多いのでは一 ないかということです。 1101八年現在、日本では過去の優生政策により障害者に対する強制的断種手術が行われたことが 問題視されていますが、これも最初は当事者の証言を真剣に聞き、証拠となる資料を探した歴史家の一 努力がありました。また、地球温暖化問題が前世紀半ば、最初に話題になったときには、それがシミ ユレーションに基づく推論であることが問題視されましたが、現在はそうした手法が科学的推論の一 (ahsg) つとして認知されています。 以上のことを踏まえるならば、むしろ、「複雑な対象を前にして、価値中立を掲げることが持ちうる 政治性」こそが念頭に置かれなければなりません。すなわち、マジョリティの価値観に浸っているた一 めに自らの政治性が自覚できていない状態のことを、「中立」という名で呼び変えていないかどうかを、 改めて問い直す必要があるでしよょう。 それに加えて、人間の理性の限界という問題もあります。実際、本人は真剣に研究をしている場合 でも、無意識のバイアスで、ある証拠を完全に見逃し、自分の論点を支持する証拠ばかり集めるとい うことがありうるからです。一世紀において、女性の知性が男性に劣るとの見解を出したいくつか の研究には、明らかにこのような傾向がみられました。 司寺に言えるのは、「学問は現実の対象に近づくほど不可避の政治性を帯びる」ということを踏まえ vそれでも「学問的方法論に根ざして言葉を紡ぐことの大切さです。物理学のような法則定立的な方一 AuDろ、歴史学のような個性記述的な方法にしろ、定量的な社会学のようにその中間的なものにし Lo、それは世界を認識する異なったやり方として、数世代にわたり様々なテストを生き残り、受け継 がれてきた人類の遺産なのです。

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現代文 高校生

答えは⑤です。 解説お願いします。

地球温暖化問題においては、問題が起きる前に手を打つ「予防原則」の立場から、気候変動条約や CO2削減といった様々な政策的 論が不確定なうちに政治が動き出した」との印象を抱き、研究の不備や政治的偏向を主張したりして (ト) ソチが動き出しました。 結果として、反対する人は「科学的な結 論争が続くことになったのです。 このような状況を否定的に捉えて、政治論争が起きるような学問はまともでない、政治的中立性が ないとの結論に飛んでいく人もいます。あるいはその逆で、科学的な検証を行って出した答えに反対 する人がいるなんて信じられない、 x ではないと叩く人もいます 私自身は、カントのように、論争の存在自体をY に捉える立場です。それも、彼よりは一歩踏 み込んで、ある学問が人間社会に関わる切実な対象を扱うほどに、その一Z な論争と、政治的論争 との間の境目が不明確になっていくのはやむを得ないし、だからこそ論争が必要だと思っています それは、人間の認識能力の不完全さと、対象の複雑さとが合わさったとき、何らかの政治性が生まれ てしまうことは避けがたいと考えているからでもあります(なお私は、「政治的(political)であるこ 」と「党派的 (partisan)であること」を区別しています。前者は「市民生活においてどの価値を優 先するか」ということ、後者は「誰の味方か」という人間関係的な側面のことです)。 完全に世界を認識し、記述できるシステムはありません。もしそ れ以外のものは

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