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現代文 高校生

合ってるか確認してほしいです。空いてるところわからなかったので教えてもらえると幸いです。🙇‍♀️

ual山 I0門P回 語などは、改まった場面で用いると不進し 次のO~@は、話し言葉として使われる場合はあるが、書き言葉としては問題が あるものである。問題点を指摘し、適切な表現になるよう修正しよう。 。彼女は走るのはあんまりだけと、泳ぐのはすごい速い。 こ 四くだけた表現·俗語 x~みたいな(~のような) x ちょっと (少し) x しょうがない(しかたがない) x なので(だから.したがって) 彼サは走るのけありだりでかぐのけ大のは x ~だけど·でも(~だが、しかし) × お父さん(父) (中) 中 × 勉強できるし、スポーツもできるし、あの人みたくなりたい。 ■文法的に誤った表現 なにげにそう決まっちゃったんだから、Uょうがないよ。 ら抜き言葉 …可能の助動詞「られる」から「ら」が抜一 けた表現 x食べれる(食べられる) × 見れる(見られる) い抜き言葉 …動作の継続を表す補助動詞「いる」の一 「い」が抜けた表現| 部活やめたんだけど、バイトでめっちゃ忙しいわ。 部活やのたが、バイトで大夜忙しい x 見てる(見ている) × 寝てる(寝ている) この本超おもしろい。っていうか読まないヤッって考えれない。 さ入れ言葉…使役の助動詞「せる」の前に余計な一 「さ」が入った表現 この本大変おtうい なんで少子化が進んでるのかわかんない。 読まさせる(読ませる) どうして少3化が進人でろりか ×部活(部活動) × パイト(アルバイト) 確認ワーク」 和語から漢語へ 次の0~0を、改まった場面で用いる書き言葉に改めよう。 小論文や履歴書、改まった手紙などでは、日常生活と一 eコンビニでのバイト 比べて漢語が多く使われる。和語を漢語に言い換える練 コDl HuKKtpでのア 習をしよう。 部活の朝練| 部路動の朝律日 こ C 解 P10 〈例比べる →比較する かかるお金 →費用 あんまり食べれない T 違う点一 →相違点 (大本交 ©いっぱい 春も夏も着れる激カワ服 ここす2 だんだん ヘ ] 行も夏も希られる わかる 調べる なんでその曲を聞かさせるのか (調査可る 測る 確かめる 3w 少しも君景画を読まててくれ乃い ちっとも漫画を読まさせてくんない 進める 増える 言いたいことはちゃんと伝わってる 売る 44 eよくなる fってる 悪くなる 【悪化す 同じ点」 20 ) るる 次の和語を漢語に言い換えよう。 教科書ワーク ファミレスみたいな

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現代文 高校生

合ってるか確認してほしいです。空いてるところわからないので教えてほしいです🙇‍♀️

話し言葉と書き葉 改まった場面では避けたい表現 対前 磁)aの 教科書ワーク 日常会話などでよく使われるくだけた表現、俗語 次の○~@は、話し言葉として使われる場合はあるが、書き言葉としては問題が あるものである。問題点を指摘し、適切な表現になるよう修正しよう。 彼女は走るのはあんまりだけど、泳ぐのはすごい速い。 語などは、改まった場面で用いると不適切な場合が- くだけた表現·俗語 x ~みたいな(~のような) x ちょっと(少し) x しょうがない(しかたがない) x なので(だから·したがって) x ~だけど·でも(~だが.しかし) 彼サは走るのけあ1りだりてかぐわは大k 勉強できるし、スポーツもできるし、あの人みたくなりたい。 x お母さん(母) ×お父さん(父) 文法的に誤った表現 なにげにそう決まっちゃったんだから、Uょうがないよ。 ら抜き言葉 …可能の助動詞「られる」から「に けた表現 部活やめたんだけど、バイトでめっちゃ忙しいわ。 × 見れる(見られる) い抜き言葉 …動作の継続を表す補助動詞「u x 食べれる(食、 部活やのたが、パイtで大険忙 しい この本超おもしろい。っていうか読まないヤツって考えれない。 「い」が抜けた表現 x 見てる(見ている) この本大変おもしろい x 寝てる(寝て さ入れ言葉 …使役の助動詞「せる」の前 なんで少子化が進んでるのかわかんない。 「さ」が入った表現 x 読まさせる(読ませる) どうして少3化が進んでろくか ×バイト(アルバイト) ×部活(部)

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現代文 高校生

⑶.⑷.⑺.⑻を教えてください

昨日、久しぶりに“梅雨の晴れ間に、大文字山を登った。先月の激しい雷雨で土砂が“クズれ、 足もとが悪いところもあって、散歩にしては 。ゲワしい道程である。そのぶん、登り切ったときの爽 快感も格別だ。山頂からの眺めを楽しみに登る人も多い。僕は大体、考えごとをしながら登るので、 山頂に着くとそのまま景色を °一督して引き返してしまうのだが、昨日は珍しく、しばらくぼうっと していた。 すると、遠く彼方に連なる山の緑の中に、キラッと光るものが見える。正体はいまひとつ。判然 としないが、山の中の何かが太陽の光を反射しているのだろうと思う。それが、キラッキラッと、繰 り返し光る。僕は遠くのその光が、遠くに見えるということが何とも不思議に思えて、ただ。ギョウ ふした。 太陽の光が何かに当たって跳ね返り、その光の粒子が空中を伝わって。フクザツな物理化学的過 程を引き起こし、結果として、脳内にある活動のパターンが生成していく。この脳の活動によって、 僕の「見える」という経験が生み出される。~大雑把に言えば、これが 科学的な説明になるだろうか。 しかし、だとしたら、なぜ山の風景は「目の前」にではなくて、遠くに、ずっと向こうに、「あ そこに」はっきり見えるのか。僕が見ているのが山の中の光そのものではなくて、そこから空中を伝 わり、目の中にまでやってきた光の粒子なのだとしたら、なぜ僕にいま「見える」のは、その到来し てきた日の前の粒子ではなくて、身体のずっと向こうの、遠くの、山の中の、まさに「あそこの」光 なのだろうか。考えれば考えるほど不思議になって、僕はただじっと、その光を見つめ続けた。 いま僕の手前の床の間に、花瓶に生けられたスターチスがある。花は、その花が生けられたまさ に「そこ」にあるように見える。僕は花から到来した光の粒子を見ているというより、その花を、 直に見ているように感じる。手の届かない、日で直接触れているわけではないその花が、その場所 森田真生「白紙」ワークシート*読んで考えたことを、話してみよう* ト (1)-7見える」ということの にありありと、はっきりと見える。 光の粒子と網膜の物理的接触というよりも、もっとはるかに親密な関係を、僕は花と結んでいる ように思える。花が「見える」ということは、どこか深いところで花と直に触れ合っていることだと いうふうに思える。花だけでなく、花瓶と、あるいは山と空と、つまりは環境のすべてと、いつの間 にか僕は心を通わせ合っていて、その「通い合う心」が「見える」「聞こえる」「わかる」ということ を、背景で支えているような気がしてくる。 「見える」ということは実際、今の人類にはとてもまだ言葉にできないような、不思議で奇跡的 な事態なのではないか。あまりに不思議で、あまりに大きな謎なので、(かんら)「当たり前」と いうことにされてしまう。 不思議なことを当たり前のこととして、(すなわて) は前に進めないところがある。 (下とんに)「見える」「聞ごえる」機械は作れないとしても、「見える」ことを前提として、そ の能力を拡張する眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を作ることならできる。自力で「わかる」機械はなかなか作 れそうにないが、人の「わかる」力を前提として、それを延長することならコンピュータにできる。 そうして人は、最大の謎を、最奥の深秘をひとまず括弧にくくることにして、不思議の先に、広 大な知と実用の世界を構築してきた。いまや 前提の、すべてを支える原初の不思議の、不思議であることすら自覚されない。 「前提」とすることによってしか、人 い その構築された世界はあまりに壮麗で、足もとの

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現代文 高校生

問5が難しいです。 どういうふうに考えればいいのか教えてほしいです🙇‍♂️

小池昌代 背·背なか·背後 待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きに立っていたような場合、一瞬、どんなふ うに声をかけようかと、迷いながら背後からそのひとに近づいていく。 前からだったら、目と目があえば、それで済む。待った? 久しぶりね、さあ、行こう 会話は船のように自然と ピトの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう。つきあってきたのは、どのひととも、彼らの正面ば かりのような気がして、心もとなく背中をナガめやる。 そのひとがくるっと後ろを振り向けば、ただちにわたしは、そのひとの世界に合流できるのに、後ろ姿は閉ざされた そのままわたしが行きすぎれば、そのひととわたしは永遠に交わらないまま、これを最後に別れてしまうかもしれな 3 待ち合わせの約束東を一方的に破棄するのだから、これは裏切りだが、出会うことは常におそろしい衝突でもあるから 衝突をさけて、ひとの背後を、ひたすら逃げ続けるという生き方もある。例えばハンザイ者か逃亡者のように そういう考えが、ひとの背を見ながら、わたしのなかにひょこっと現れる。そのことはわたしを少し驚かす。わたし は何かを恐れている。 そもそも背中は、そのひとの無意識があふれているように感じられる場所である。だから誰かの後ろ姿を見るとき、 見てはならないものを見たようで後ろめたい感じを覚えることもある。 背中の周りに広がっているのが、そのひとの「背後」と呼ばれる空間だ。自分の視線がまったく届かない、見えない 後ろ半分のこと。わたしはこの空間になぜか惹かれる。見えない、というところに惹かれているのだろうか ひとは自分の背後の世界で、何が起きているのか知り得ない。だから背後は、そのひとの後ろに広がっているのに そのひとだけをユイイツ、排除して広がっている。 背後という空間から、その人自身が排除されているといっても、それはひとと背後が無関係であるということではな い。振り返りさえすれば、いつでもひとは、自分の背後がそこにあることに気づく。もちろん、振り返ったのち一瞬に して、そこは背後ではなくなるわけだが、先ほどまで背後としてあった気配は、すぐには消えないで残っている。 そのとき今度は正面であったところが、自分の背後と化している。しかし意識が及ぶのは、常に眼前の世界で、背後 のことはソクザに忘れられる。視線の行くところが意識の向くところだ。だから目を開けて背後を考えるのは、開いて いる目を、ただの「穴」とすることに他ならない。その穴のなかを虚しい風が通り抜けていく。背後を思うとき、自分 が、がらんどうの頭蓋骨になったような気がする。 ひとと話をしていて話の途中で、そのひとの背後にふと視線が及ぶことがある。 何かとても大切なことを話しているときに、後ろで樹木がはげしく風にユられていたり、夕日がまぶしく差し込んで いたり、鳥が落ちてきたり、滝が流れていたり、不吉な雲が流れていたりするのに目がとまる。 不思議な感じがする。こちら側の世界と触れ合わない、もうひとつの世界が同時進行で存在している。そのことに気 づくとおそろしくなる。背後とはまるで、彼岸のようではないか。 そしてわたしが見ることができるのは、常に、他者の背後ばかりだ。見えるのが、いつも、ひとの死ばかりであると いうことと、これはまったく同じ構造。 自分の死が見えないように、自分の背後は見えないし、そもそもわたしは、自分の後ろ側など、まるで考えもせずに 暮らしている。見ることができないし、見る必要もないのだ ただし、着物を着て、希の具合を見たいときなど、あわせ鏡で確認することはある。このことを考えると、やっぱり 鏡とは、魔境へひとを誘う魔の道具であると思う。しかも、背後へは、この道具をダプルで使用しなければならないの だから、ひとが自分の背後へ到達することの、おそろしさと困難さがわかろうというものだ ともかく、背後は死角である。 死角を衝かれる時、ひとは驚く。わたしが冒頭に、後ろからどう、ひとに声をかけようかと迷ったのも、相手をびっ くりさせないためにはどうするのがいいのか、という思いもあった。 そもそも身体に触れないで、声だけでそのひとを振り向かせることはできるのだろうか。

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