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でいます。 無痛文明が最も進んでいるのは、おそらくアメ
リカ合衆国と日本ではないでしょうか。
では、苦しみからどこまでも逃げ続けていく仕組みが社
会の中で発展したとして、それのどこが悪いのか、という
疑問が浮かぶと思います。 文明の進歩とはそういうもので
あっただろう。それは文明の輝かしい勝利なのではないか、
何てすばらしいんだ、と。はたして、そうでしょうか。
これは非常に悩ましく難しい問題です。 現代哲学が正面
から立ち向かって、深く掘り下げるべき問題ではないかと
思います。 今体験しているさまざまな苦しみ、 将来ふりか
かってくるであろうさまざまな苦しみ、そういうものから、
多くの人々が次々と逃げ続けることができるような仕掛け
が張りめぐらされている社会は、いい社会だと思いますか。
皆さん、どうお考えでしょうか。
この問いかけを若い人たちにすると、彼らはイエスとは B
なかなか答えずに、考え込みます。
苦しみから次々と逃げ続けることができるのは文明の勝
ることができ、快楽、刺激、安楽さ、快適さ、これらを十
分に経験することができる。するとどうなるか。「気持ち
がいいけれどもよろこびがない、刺激が多いけれども満た
されない」、という状態になるのではないでしょうか。 こ
れが、現代文明の根本問題だと私は思うのです。
私もここまでいろいろ考えてきてわかったのですが、 実
はこれは現代に特有の問題ではないのです。 これは、非常
に古くから哲学や宗教が、それぞれの時代に即して考えて
きたことなのです。
ある人が財産を手に入れ、権力を手に入れ、 好きな人を
手に入れ、時間を手に入れ、快楽を手に入れ、刺激を手に
入れ、さあどうなったかというと、その人の人生は不幸に
なりました、というお話を我々はたくさん持っています。
どの文化でも持っています。 これは何を意味しているのか。
やはり人類は昔から、こういう問題に直面してきたので
す。快楽はあるけれどもよろこびがない、物はあるけれど
も充足しないという問題に。ところが、昔の社会では、こ
利だし、それでどこが悪いのかと問われたとき、私はどう
答えるか。そこに何か問題があるとすれば、それは我々か
「よろこび」が失われていくことだ、というのが私の結
論です。
苦しみから次々に逃れていった後に何が残るかというと、~
快楽と快適さと安楽さが残ります。 社会の中で、人間関係
の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れてい
そうしてどうしても逃れられない苦しみがあれば、そ
れに目隠しをして見ないことにする。 すると、そういうも
のは全部目の前からなくなって、そのあとに何が残るかと
いうと、快楽、快適さ、安楽さが残る。 欲しい刺激は手に
入れられる、 楽をしたいときには楽ができる。 こういう状
態になるのです。
もちろん今の段階の文明は、まだそこまで行ってはいま
せん。そこを目指して動きはじめたところですから、 まだ 5
そこまで行っていないのですが、もしそこまで行き着いて
しまったらどうなるのか。 苦しみからいくらでも逃れ続け
ういう状況に陥る人は少数でした。たとえば、権力の頂点
に立って人々から搾取している貴族や王族などの、一握り
の人々だけだったでしょう。
すなわち、文明が進歩した結果、昔は一握りの貴族とか
王様だけが陥っていた状況が、 大衆化したと考えられるの
です。 無痛化する現代文明とは、昔は一握りの人しか抱え
込むことのなかった富の逆説を、社会全体で抱え込まなけ
ればならなくなった文明のことなのです。
出典 『生命学をひらく自分と向きあう「いのち」の思想」
(二〇〇五年刊)
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