和歌は、ただ初めの五字(=初句) から終わりの七字(=結句)
まで、そうだそうだと思われることを詠んでいるものがよいので
ある。寂蓮入道の歌に、次のような歌がある)
尾上より…...=山の峰から門前の田んぼまで吹き通って来る
秋風にのって、稲葉の上を吹き渡ってくる雄鹿の声よ
(作者寂蓮はこの歌について) 格別に自分でも感嘆する気持ちが
あって、『千載集』が選ばれたとき、どんなことがあっても入集す
るはずの歌だという旨を申し出たのだが、撰者(=藤原俊成)は、
「(趣向の)おもしろい歌である。 この歌は道理に合わないわけ
ではないが、後代の和歌を損なうような歌である。入集すること
はできない」と申し上げなさったところ、 作者 (寂蓮)は、「その
ままこの和歌一首を入集させたとしても、なんの不都合もあるま
い」ということを、泣きながら申し上げたので、私(=藤原定家)
の推薦枠として入集を申し入れ実現をみた。 ところが、最近、「海
辺の鹿」という題の歌)に、「松の枝もるさを鹿の声」とありま
したのは、この(寂蓮の作品と)同じ趣向でありました。 「月だに
「つらき浦風に」といっているその「浦風」という言葉だけが海辺
に関わるものですが、 そのほかは「海」を指すものは何もない。
また、「松の枝もる」などとあります下の句も、鹿の声はどうして
松の木の枝をもれてくるのか、納得しがたい。そのころ、 (藤原)
家隆の歌に、
時雨ふる….……..=時雨の降るころになると、雄鹿の表面の毛に
ある星(=白い斑点)も、まっ先に冬毛に変わるためにいろ
つやがなくなり曇って見えることだ
とあったのを、作者(家隆)は、うまく詠んだとお思いになって
いたが、(俊成) 入道は、「これも理屈は通っている。 (鹿の毛が)
冬毛に変わるころに、表面の毛の星(=白い斑点)が曇っている
というところは(趣向が) おもしろい」と言われたが、優れた歌
であるとはなさらなかった。 そういうわけで、(和歌は)どうあっ
ても趣向のおもしろさをねらうべきものではないと(私として
も)思うのです。加えて、(父俊成が寂蓮の歌について、後
代の) 歌を損なうだろうと申し残されたことが「松の枝もる」に
ついても)当てはまるのである。 「稲葉を渡る」「松の枝もる」と
いう言葉によっておのずから理解されるのである。