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現代文 高校生

現代文の質問です。なぜ、コメンテーターにとって人口減少が便利な言葉なのかという問いで、答えが、実際に因果関係のない人口減少で危機を煽っても、誰も傷つけない、だそうです。なぜ、文章中にある、一般の人を騙しやすい、が理由にならないのでしょうか。

8 8 【文章Ⅱ】 ちまた 2065年に約8800万人まで減少する一方で、高齢者の割合は4割近くに上昇すると推計 ① 日本の行く末を論じる上で、巷で騒がれているのが「少子高齢化で人口減少時代に突入する から何かと大変」という話題だ。国立社会保障・人口問題研究所によれば、日本の人口は、 人口増加こそが幸福をもたらすかのような風潮だ。 ② この推計に乗っかって、新聞、書籍、経済誌、ネット記事に至るまで、人口減少時代に起こ るであろう、ありとあらゆる危機の事象予測とそれに対する処方箋が考察されている。まるで、 かわいまさし うはいかない。 ⑤ というのも、その地域の人口が減れば当然、いずれは行政規模の適正化のため、市町村を合 併しなければならない。民間企業なら地方の支店を減らすくらいで済むが、地方公共団体はそ 地方公共団体の関係者だと筆者は見ている。人口が減り続けたら、最も困るのは彼らだからだ。 版されるなど、世間の耳目を引いている。 談社現代新書)だ。これが45万部を超える大ベストセラーとなり、類似したムック本が複数出 ③その火に油を注いだのが、2017年6月に発刊された河合雅司氏の著書『未来の年表』(講 4 とはいっても、実はこの「人口減少危機論=人口増加幸福論」を支持する“世間〟とは、主に ⑥ 日本では過去3回、自治体が大合併した歴史がある。(図1)日本には1888年(明治2 年)時点で、自然集落の町単位で7万以上もの自治体があったが、翌1889年の「明治の大 合併」によって、1万5859の市町 に再編された。 らに合併が進むかもしれない。 することを目標に掲げていたから、さ 府は、もともと自治体数を1000に 治体数は1718で止まっている。政 年(平成26年)の合併を最後に全国自 合併」「平成の大合併」を経て、2014 戦後も市町村合併は進み、「昭和の大 図1 自治体の合併の歴史 1,242 10,982 1,797 8,518 1,903 1,574 663 1,994 577 568 自治体数 年月 計 市 町 村 |1888年 (明治21年 ) 1889年(明治22年) | 71,314 71,314 15,859 39 15,820 1922年(大正11年) 12,315 91 1945年(昭和20年10月) 1947年(昭和22年 8 月) 10,505 1953年(昭和28年10月) 9,868 1956年(昭和31年4 年4月) 4,668 10,520 205 210 1,784 | 8,511 286 1,966 7,616 495 1,870 | 2,303 1956年(昭和31年9月) 3,975 498 1962年(昭和37年10月) 1961年(昭和36年6月) 3,472 556 1,935981 3,453 558 1,982 913 1965年(昭和40年4月) 3,392 560 2,005 827 1975年(昭和50年4月 3,257 643 1,974 640 2,001 601 1995年 (平成 7年 4月 3,234 1999年 (平成11年4月) 3,229 671 1,990 3,218 675 ,981 | 562 1985年 (昭和60年 4月 3 月月月月月 年年年 18 786 757 2002年 (平成14年4月) 2004年(平成16年5月) 3,100 695 _ 1,872 533 2005年(平成17年4月) 2,395 739 1,317 339 1,821 2006年(平成18年3月) 2010年 (平成22年4月) 1,727 2014年(平成26年4月) 1,718 777 846 198 198 790 745 183 (総務省 「市町村数の変遷と明治 昭和の大合併の特徴」 より ) 25・・ しないことが分かる。 このように過去を振り返ると、人口 あったからだ。したがって、人口減少で地方自治体が消滅するという相関関係は必ずしも成立 増加時代にあっても自治体の数は減っている。そこには行政の効率化という大きなメリットが 2017年には約274万人と50万人以上減った。 事実、ピークの1994年には約328万人もいた地方公務員の数は、その後減少を続け、 り 自治体が合併すれば、2つの役場が1つで済むわけだから、課長や係長といったポストも1 つずつ失うことになるだろう。あるいは将来的にリストラで職場そのものを失うかもしれない。 ここう そこで、地方役人らは何とかして糊口をしのごうと、「地域に人口を増やそう 尾 Alchy 30 L

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現代文 高校生

尚文出版基本の現代文からですこの答え教えて欲しいです🙇‍♀️

ステップ 18 80 ステップ LISSTOH ステップ1 長文に取り組もう 鉄のしぶきがはねる 要約シート (技術は体の内側に) ミリ単位以下での正確さが求 められるでは、体がおぼえている感覚が頼 り。 技術はまさに〈身につける〉ものなのだ。 桃 (注) 工業高校でコンピューターを学ぶ心は、祖父が経営していた金属加工の工場が閉鎖して以来、手作業より もコンピューターを信頼するようになった。しかし、ひょんなことから「ものづくり研究部」の活動を手伝う ことになり、高校生たちがその技能を競う「ものづくりコンテスト」(ものコン)への出場を決意する。 1 ゴールデンウィークを間近に控えた四月の終わり、部活のミーティングで三つのことが伝えられた。 「毎年のことやけど、連休の間も練習はあります。」 「はい。」 だれもが真顔でうなずいた。 今は一本でも多 くの課題部品をつくりたい時期だ。反復練習、反復練習。練習を重ねて、体に課題の感覚をおぼえこませ ておきたい。 (1) 図「ついては五月の連休に特別講師に来てもらうことになった。」 「小松さん帰ってきたんですか?」 「い や」声をあげる心に、先生は小さく首を振って言った。 「本校の卒業生、さきはらゆきこさんだ。」 ③ 崎原、由希子? どこかできいたことがある。名前をきいただけなのに、心の頭の中でなぜか漢字に変 換された。もしかして。 顔を上げた心に、「そうだ。」というように先生はうなずき、「本校の卒業生。も のコン〉の全国三位入賞者よ。 大手機械メーカーに就職して、今は〈技能五輪>の強化選手としてがんばっ (注2) 目標6分 解答時間 目標15分 本文 1小松さん技術者。「ものづくり研 究部」に指導に来ていた。 2技能五輪若い職人たちが、それ ぞれの技術を競う大会。 3旋盤鉄を削って加工する技術。 根拠のある二つの事柄 4二律背反 の、つじつまが合わないこと。 5テーパー金属部品の一種。 6隅肉金属加工の技術。 7原ロー「ものづくり研究部」の部員。 要旨をつかむために! 空欄を埋めていこう ○ 文章展開図 【各2点】 100 1部活のミーティング 連休の間も練習 とる。」 20特別講師・・・ 崎原由希子さん (注4) 一度しか見ていないはずの笑顔が、くっきりと思い出された。 初めて見たとき、心はあの笑顔に抵抗を おぼえた。旋盤に対して複雑な思いがあったからだ。工場を造り、壊した。懐かしいけれど、つらい。好 きだけれど、嫌い。旋盤は心にどうしようもない二律背反をつきつけてくる。それにまっすぐに取り組む ことのできる崎原さんの笑顔を、ちゃんと見ることができなかった。 ごちゃごちゃと引っかかる思い出を (注3)せんばん 忘れたくて、コンピューターの世界を選んだつもりだった。 3 15 ⑤「ほら、この人よ。」先生は持っていたファイルの中から、見覚えのある新聞のコピーを取り出した。課 部品を手にした崎原由希子さん。 7-6 5~ ④心 初めて見たとき 笑顔に抵抗をおぼえた ・・・旋盤に複雑な思い 印象が違う はちきれんばかりに 笑顔の裏側 ごからものが、心には今ならわかる 毎日の地味な 毎日の地味な積み重ね ↓ 19 ステップ1 小説 「こんな人でしたっけ。」 その笑顔から受ける印象があまりに違うことに、心は少しうろたえた。あのと いと はにかむような控えめな微笑み。 けれど、はちき した笑顔は、そこにはなかった。 積み重ね。真夏はだらだらと滴る汗をぬぐいながら、冬は凍えるほど冷たい指先にたえながらの練習。膨 大な時間をツイやして練習をしても、体に残るものはほんのわずかだ。 やってられないほど効率が悪かっ た。けれどわずかながらも確かに身につくものがある。だから続けられる。 (注5) (注6) みにく ミジュクながら、テーパもネジもつくれるようになった。隅肉もなんとかやれる。 崎原さんの笑顔に隠 れているのも、たぶんそういう自信だと思う。もっと練習すれば、もう少しうまくなれるんじゃないか。 25 そういう期待。たぶん。 まだまだ全然追いつけないけれど、 崎原さんの体のなかにあるものを、自分も少 しはつかんでいると心は思う。だからこんなに崎原さんの笑顔がまぶしく見えるのだろう。 出たい。 「それから」 中原先生は声を引き締めた。「校内選考は、例年どおり六月初めだ。中間テスト明けでも あるけど、あわせてがんばってくれ。」 すっと冷ややかな空気が流れた。 校内選考。 選ばれるのはひとり。か、ふたり。 下腹にぐっと力が入っ 30 (注7) 能性が残っている。 た。自分でも意外なほどの思いが込み上げてきた。ひとりは原口に決まっているにしても、もうひと枠可 混じりけのない、ただまっすぐな思いだった。突然、途方もないような道が目の前に開けたみたいな気に なる。 地区大会、九州大会、全国大会。意味なんかいらない。 とにかく行けるところまで行ってみたい。見え 35 ているところには行ってみたい、それだけだ。ストレートな思いが、つき上げるように心の胸に湧いてきた。 ガイドの →間五を攻略 原さんの笑顔に対して、かつて心が抱いた印象に線、改めて見た際の印象に線を引こう 2 ... 確かに身につくもの ・期待 ○校内選考 心 なほどの思い 出たい 行けるところまで 行ってみたい 大きくとらえよう 要約への第一歩 【4点】 場面 心が崎原さんの写真を見る 心の心情 〈ものコン〉に 〇場面 という思いが込み上げる 理解を深めよう 要約のための確認 崎原さんの写真を見る →笑顔が輝いて見える ○状況 崎原さんの笑顔の裏側 心の心情 今ならわかる・・・自信・期待 まっすぐな思い出たい →行けるところまで 行ってみたい

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現代文 高校生

⑤がなぜ正解なのかわかりません。 正確さに欠けるとはどう言うことなのでしょうか?

【資料Ⅰ】 7% 13% 42 キャッシュレス決済の利用について 148 20 351 0% 20% 【 資料 Ⅱ 】 40% 60% 35% 10% 80% 100% 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を始めた A 5%のポイント還元制度をきっかけに利用を検討している 以前から利用している 利用するつもりはない 無回答 キャッシュレス決済の利用状況について 60% 54% 50% 50% 43% 40% 34% B1% 29% 30% 20% 19% 20% 10% 0% 40代以下 50代 60代 70代以上 「以前から利用している 利用するつもりはない 【資料】 62960 外食と持ち帰りの税率の違いについて 28% | 外食の際に意識する | 外食の際に意識しない (いずれも「毎日新聞」 2019年10月28日掲載記事をもとに作成) らを読んで、後の問い (問1~4)に答えよ。(配点 20) であり、【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、キャッシュレスのメリットや普及への課題について新聞に寄稿された意見文である。これ ト還元制度が導入された。【資料1】~【資料Ⅲ】は、消費税増税後に行われたキャッシュレス決済の利用等に関する調査結果 化政策を推進している。二〇一九年十月には、消費税率の引き上げに伴い、軽減税率制度とキャッシュレス決済に対するポイン 政府は、少子高齢化や人口減少による労働者人口の減少に備え、生産性を向上する手段の一つとして、キャッシュレス (注1) (注2)

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現代文 高校生

至急! こちらの回答を教えていただきたいです! よろしくお願いいたします!

スタッフ 16 クサい物に蓋をする。 4 次の線のカタカナを漢字に直せ。 14 にセジョウして外出する。 ( T シッソウした友人を捜す。 15 ダイダな生活を批判される。 彼女は文豪のゾウソンにあたる。 ) 3 草原にソウリョウな風が吹く。 ( 彼は少し自信力ジョウのようだ。 ( 777 アイソ笑いをしてごまかした。 186 イキドオリを発して食を忘る。 4 川をボートでソコウする。 8 5 県大会での入賞をネラう。 6 論文のをハソクする。 7 せ我慢をする必要はない。 不満でクチビルをとがらせる。 ( 9 社長が乾杯のオンドをとった。 ( 10 いよいよネングの納め時だ。 11 作品のコウセツを論じる。 1 株取引で大損害をコウムった。 ) 1 会社のイアン旅行に参加する。 20 自分の選択にコウカイはない。 2 雪のケッショウを観察する。 2 初出場でケッショウに進出する。 ( (23入りを洗って消する。 24 文芸部の部誌を五十部入る。 使い分けよう! ほそく 【補足・捕捉】 補足 補足して説明する (付け加えて補う) 実態は捕捉しがたい・敵を捕捉する(つかまえる) 足す」、「橋」は「捕まえ、捉える」と、それぞれ "使い分けましょう。 ) ) ) ) ( )

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現代文 高校生

文章の意味が分かりません。 単語とか調べたものの、筆者の伝えたいこと、 各段落の内容が分からないので分かりやすい言葉で教えてほしいです。 問題の解説が掲載されていないため、漢字問題以外、解説お願いできませんか?🥺 シャーペンが私の、間違っていたとこのみピンクで正解を示して... 続きを読む

た。 問4 傍線部 (3) 「このことを、なぜわれわれは素直に認めることができないのだろうか」とあるが、この問いに対する筆者 考えとして最も適切なものを、次の①~⑥のうちから一つ選べ。解答番号は2 ① 他者に対して心を開くことは危険を伴うことだから。 ② ひとひととして向き合い、関係を構築すること自体が稀なことだから。 自立した主体の確立こそを理想とする社会の中で育ってきたから。 ④他者との関係性を損なわないためには、互いに適度な距離をとることが必要だから。 ⑤ 関係だけでなく、個人の能力も自分の本質を為すものとして無視できないから。 upt 解答番号は、第二間で 【古文】あるいは【現代文】 のいずれを選択した場合でも1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、設問 (問1~問10)に答えよ。 ひとりの人間と、彼/彼女が最初に出会うことば 〈言語〉との関係は、自明であり必然的であるというよりはるかに、ある種 の偶然と事故によって支配されている。ひとりの人間がその誕生時において引きずる言語的ケイブそのものも、すでに複雑で錯 した経路と水脈をかかえている。そうだとすれば、ことばの獲得とは、生得的な関係によるAなものではなく、あ ある種の根源的な喪失と離脱のなかから再発見・再獲得されるなにかであることになる。そのときことばは、私たちの生地ではな く、移住地であるのかもしれないのだ。 もしそのように考えることが許されるなら、ことばは私たちの存在を根源的に決定づけるなにものかであることをやめる。こ とばと私たちとの関係のなかに、A な帰属関係所有関係を前提としない、 旅と移住の運動性が生まれはじめる。こ とばはそれ自体として説明されるのではなく、それが言語的な未発の意識とのあいだに保存する記憶や痛みや欲動のほうから 定義され、そのことによってことばは間言語的言語外的な認識によってつねに流動の渦のなかに置き直される。 私たちはみな、自分自身の言語的な存在のかたちを、ことばという場に住みつかせるのだ。言語を な手掛かり とせずに存在する自分自身というものがあって、それをあらためてことばという異土に移り住まわせる。 そのとき、われわれが ことばを使うという行為は、本来的にすでに移住の行為、移民の行為だということになる。私たちはそのようにして日本語の世 へと移住した。 さらにいえば、私たちはそのようにして、日本語話者としての「日本人」へと移民した。 ブラジルでは、それはふつう 「グラフィチ」と呼ばれる。 街路の壁々に描かれた、奔放な落書きのような風刺絵。 そもそもイ タリアでに傷をつけて書かれた「掻き文字」を意味する考古学用語が、日常の街路の壁の落書きをさすことばへと転用 された「グラフィティ」 (Graffitti) を、そのままブラジルのポルトガル語風に発音すれば「グラフィチ」。この国の街で、グラ フィチはあらゆる通りと路地とに満ちている。消されても消されても、人々は色とりどりのスプレーをふたたび持ってきては、 知らぬ間に家々の商店の壁、シャッターを目呟くばかりの想像力の氾濫によって色と線で埋め尽くしてしまう。 書きが文字だけであれば、それはふつう 「ビシャソン」である。 独特の字体に、符牒のようなことばの断片が踊り、かぶ 文字がや虫のかたちに変容してきだし、壁の平面に陰影の凹凸が生まれ、ことばに色と風合いとかたちが備わりはじ める。俗っぽいことばや政治的なスローガンを書き連ねる(「ビシャール」=壁に落書きを描くだけのビシャソンにまじって、 時々はっとするほど時的な数行が、うす汚れた壁面に踊っていることもある。 ブラジルのグラフィチやビシャソンの世界の豊さを、ブラジルを訪ねるはるか以前に私がはじめて知ったのは、デニス・ テッドロックの詩集「夢の暦の日々』のなかの記述からだった。 ニューメキシコのズニ族や、グアテマラのキチェ族の口承文化 神話の研究で知られる北米の人類学者・民俗学者テッドロックは、ブラジルのカンピーナス市に滞在して特異な詩集のコウソ ウを練っていたとき、町の落書きのひとつに印象的な詩句を発見する。 彼はそのポルトガル語の詩句を、こう写し取ってい VAI-SE A PRIMAVERA QUEIXAS DE PASSAROS, LAGRIMAS NOS OLHOS DOS PEIXES テッドロックが住んでいた家からわずかに二プロックほど離れた路地の壁に書かれていた、このビシャソンの飛び跳ねる奔放 筆跡を想像しながら、私はすぐにテッドロックもおそらく気づいていない〉 この詩句の出自を理解した。 24一般入試A問題 (2024AG-B-1 (2024AG-B-2) ② 介護する 不十分さが解消されるため、その関係を豊かにすることに注力 介護が人間に向けられたものとなり、その人間の豊かさに寄与するものとなるためには、人間の価値を能力から切り離 で捉えた上で、介護する者と介護される者の間に心が開かれた関係が形成される必要がある。 介護は介護する介護されるという立場が明確であり、その主体は介護される者であるため、介護される者が介護とい う関係を受け容れることを待つことしかできない。 介護する者と介護される者の間にひととひととの個別的関係が築かれるためには、それぞれが主体と客体としての役割 をバランスよく果たしつつ、対話の機会を十分に持つ必要がある。 春がゆく鳥の嘆き 涙が魚の目に 行く春や鳥啼き魚の目は 巨) primavera não nos deixe passaros choram wwwwww (注) ばしょう 「奥の細道」の矢立初めの句としてよく知られたこの芭蕉の詩句が、ブラジルの地方都市の路地の壁に優美に踊っているの を想像して、私は不思議な興奮にとらえられた。芭蕉の句が、 地球の対地点にまでたどりつく三百年をこえる時の道程のなか 経験した無数の声と文字による橋渡しの過程に携帯用の筆入れと墨壺である矢立」からとりだされた筆記用具によって 俳聖の手帖の表面に走った毛筆の軌跡が、時を超えて、南米の植民都市の街路の壁の、スプレーによる躍動する落書きへと転 写されるという、筆跡の機知に満ちたはるかなる旅程に。 このピシャソンとなった芭蕉の句において、 過ぎゆこうとする「春」はもはや日本的な春の惜別の感傷を宿してはいない。 プ ラジルの春とは、いったい植物的な陰喩として測られるものなのか、それとも生き物や食べ物の推移として感知されるものなの それすらもはや判然とはしない。ここで悲しく啼く熱帯の鳥とは? アマゾン川の獰猛な魚の目に溜まる泪とは? 日本語 の俳諧が、ポルトガル語の Haikai へと転生するあいだに、ひとつの文化が感情の構造として宿していた意味と感覚の連関の統 一体が破れ、異形の、しかしみずみずしい力にあふれた別種のポエジーが、一気に侵入する。 自宅の近くの壁にお気に入りの落書きを見いだしたテッドロックは、たしかにこの詩句の古典日本的起源を知ることはな かったかもしれない。しかし「夢の暦の日々」という詩集が示すように、彼はブラジルにおいて経験する日常的な出来事と、そ の反映としての夢のイメージとを、彼がよく知るマヤ=キチェ族の暦の形式に置き換えられた目録のなかに書き込んでいった。 「一の鹿」の日にはじまり 「一三の死」の日で一回転する精緻なマヤ暦のなかで自らの日常と幻想とを反芻することで、彼は近 代世界を統べる日常の時間から離脱し、先住民の生きてきた別種の暦との連続性の感覚のなかに入ってゆく。 人類学という実践 そのものが、異なる時間性の境界を越えてつかのま生きる実践であり、自らがフィールドにおいて生きたはずの別種の時の充足 をふたたび近代的な時間の支配するアカデミーのなかへと回収してしまう逆説的な行為であるからこそ、人類学はつねに幻影 夢の残滓を「詩」として、フィールドノートと民族誌の余白に分泌するほかはない。 そして、テッドロックの想像力のなか に堆積した、そうしたヨジョウとしてのポエジーの氾濫が、ポルトガル語となった芭蕉の詩句による無意識の刺によってうな がされたものであることは、かえって芭蕉の転生としてのビシャソンの力を示している。 ハイカイは、ここでたしかに、異土に 移住して別種の「時」と季節を渡りながら、 ことばと文学がたどる一つの真実の旅の道程を見事に示している。 ブラジルにおいて、俳句をブラジル時のゼンエイ的な運動へと架橋し、芭蕉の評伝的なエッセイを書いた詩人がパウロ・レミ ンスキーである。姓からも察せられるように、彼の祖父母はポーランド系の開拓移民で、さらに彼の母親には黒人の血統も流れ こんでいた。ポーランド系ムラート〈黒い混血児〉のブラジル人。 この特別のケイフの混合に、レミンスキーは大いなる誇りと 刺を感じていたという。(中略) クリチバという日系人も多く住むブラジル南部の街に生まれ育ち、流謫の「日本」と早くから出逢い、若いときに日本語を習 得したレミンスキーが芭蕉と出会うのは、かならずしも驚くべき偶然とは言えなかったかもしれない、とわかる。そしてポーラ ンド系ムラートのブラジル人によって書かれた、 ポルトガル語による唯一の「芭蕉伝」は、やはり「奥の細道」の冒頭における 俳聖の漂泊の心持ちを伝えることからはじまる。あのビシャソンにもあった「奥の細道」の矢立初めの句が、ここでも引用さ れているのだ。 レミンスキーによるこの句のポルトガル語ヴァージョンはつぎのとおりである。 lágrimas no olho do peixe (28) (2024AG-B-3) (2024AG-B-4)

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現代文 高校生

画像が横ですみません ウではない理由を教えてください (ウだと思った根拠:相手の意見により客観的になるため)

10 論理 (学問) 読書力 さいとう たかし 齋藤孝 . I テ 経験を積み重ねる読書のしかたとは 具体例と筆者の意見を選別しよう 攻略のプロセス1・2を通して、《効果的な読書のしかた》を《具体例と意見を選別しながら読み取ろう。 (注) 読書を必要ないとする意見の根拠として、読書をするよりも体験することが大事だという論がある。こ れは、根拠のない論だ。体験することは、読書することとまったく矛盾しない。 本を読む習慣をもってい る人間が多くの体験をすることは、まったく難しくはない。むしろいろいろな体験をする動機づけを読書 から得ることがある。たとえば、藤原新也のアジアホウロウの本を読んで、アジアを旅したくなる若者が いる。本に誘われて旅をするというのはよくあることだ。あるいはコウコガクの本を読み、実際に遺跡掘 りの手伝いに行く者もある。 読書がきっかけとなって体験する世界は広がってくる。 それ以上に重要なことは、読書を通じて、自分の体験の意味が確認されるということだ。本を読んでい 「自分と同じ考えの人がここにもいた」という気持ちを味わうことは多い。まったく生まれも育ちも違う のに、同じ考えをもっている人に出会うと、自分の考えが肯定される気がする。自分ではぼんやりとしか わからなかった自分の体験の意味が、読書によってはっきりとすることがある。 「あれはこういう意味だっ10 (注2)ふ たのか」と腑に落ちることが、私は読書を通じてたくさんあった。 ああ刀す

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現代文 高校生

問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題

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現代文 高校生

問4の解説お願いします!🙏🏻

一般入試A問題 (2月3日) 国語 ねばならない。 Hill 五 二戸口 (解答番号は、第二間で 【古文】 を選択した場合は1~2、【現代文】 を選択した場合は1~125 です。) 第一問 次の文章を読んで、設問 (問1~間10) に答えよ。 少女が街に濡れた”を差し出し、言う。「ビ。」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに もない。少年が朝鮮語を知らなければ、え、何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる事態を、経験することになる。 wwww ロサンゼルスでも、アルマ・アタでも、どこでもよい。英語とスペイン語でも、北京語と広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの客と運転士との会話でもよい。 複数の言語が出会う言語場、複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常の出来事である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」「解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの言語で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはり B に過 ぎない。 さらにこの意味の曖昧な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ るやかなものであることがわかるであろう。 意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 ここでは単に「ことばは常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と いう指摘は、それ自体として大きく誤ってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に画定し難いもの だという、意味の実現の原理的なありようをここで問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは なく、 意味となるものであることの結果についての辞書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」や「曖昧性」もま た、肌をCにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 じで…」 などとことばにする方式、意識的に表現を不明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この延長にある。 既存の意味論は、「ことばは意味を持つ」と考えた。このことは換言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の言語場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レム は、いくらでもある。そうした意味の濃淡を持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、空理の所行と言わ また、ことばはそれが話されたことば〉であれ書かれたことば〉であれ、外形を有している。形が在る。形を有す ること はが何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代言語学の根源的な病である。 ことばが通じないのは、片や青森方言、片や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは「誤解するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という 暗のテーゼを前提として出発している。そうした前提に立って、誤解とか誤訳とか伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったことを論じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 外の意味」や「語用論的な意味があると考えてきた。〈書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを 「正しく」 「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで 24一般入試A問題 21

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現代文 高校生

問10 ④ 問11 ③,⑤ 問12 ①,④ について解説お願いします!🙏💦 答えは上から、1,4,3です。

的に成立 (2023AG-F-10) ほない。 解釈されて れるもので ~⑤のう 一国 11- わかりやすい。 第二問 次の文章を読み、設問 問1~問12)に答えよ。 理系の学問については、高度な計算や化学実験やプログラミングができるようになって新しいものを設計することが可能に なったり、機械や人体の構造やメカニズムについて正確に理解することで問題が起こった場合の対処ができるようになったりす るなど、その学問を修めることでどのような能力が得られて、そこからどのような価値を生み出せるようになるかは、 A それに比べると、人文学を修めた人が得られる能力とそれによって生み出される価値とは、曖昧にしか論じられないものである。 また、理系の学問によって得られる能力が 一的なものであることが多い一方で、文系の学問によって得られる能力 は「批判的思考」であったり「想像力」であったりと、存在を証明することが難しいものである点も厄介だ。 ある人がどのよう な技術を身につけているかについては、その技術に対応する課題に取り組んでそれを解決することで客観的に証明することがで きるが、想像力や批判的思考についてはそういうわけにはいかない。 さらには、高度な技術はどこかでそれを学ばなければ習得することが不可能である一方で、批判的思考や想像力は、それ自体 は大半の人にもとから備わっているものである。 人文学を学ぶことはこれらの能力を深めさせてはくれるが、人文学を学ばなく 優れた批判的思考や想像力を発揮できる人はいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。 人文学は、せいぜいが「涵養」と いう程度のはたらきしかできないかもしれない。 それでは、人文学は社会に対してどのような貢献をしており、どのように役に立っているのか? 幾人かの論者が指摘しているのは、「民主主義が健全に機能するためには、一定数以上の市民が人文学に触れて、批判的思考 や想像力を適切に培わなければならない」ということである。 (注1)みたになおずみ たとえば、日本の哲学者である三谷尚澄は、著書 『哲学しててもいいですか? 文系学部不要論へのささやかな反論」のなか で、哲学を学ぶことの意義は批判的思考とともに「箱の外に出て思考する力」を養うことである、と論じている。 かんよう (2023AG-F-12) 一国 13-

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