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日本史 高校生

律令国家が成立したときの土地政策と民衆の問題です。18番と19番を教えてください。🙇🏻‍♀️

一族 (770~781) 藤原 各国 (Real) 光仁天皇の即位(皇統, 大武 (5) 土地政策と民衆 ① 農民の生活 a. 住居 竪穴住居から平地式 [18 b. 家族 結婚 [19 c. 農業 . じし を地子として納める) 鉄製農具の普及、 口分田の他に乗田や寺社 貴族の土地を借りて耕作 (賃租, 収穫の1/ [] 住居へ 〕, 夫婦別姓, 一般民衆では女性の発言力が強かった 4 d.負担兵役, 雑搖, 運脚 (調庸の都への運搬) など重い負担と飢饉の発生もあり、生活は不安定 ⇒[20浮浪], [21 逃亡 ]する農民, 山上憶良 「貧窮問答歌」 (『万葉集』) e. 影響 国家財政 軍備の危機 (8世紀末, 調庸の品質低下, 兵士の弱体化) ② 土地政策 口分田不足の解消と税収増加をめざす 722年 百万町歩の開墾計画 723年三世一身法 (養老七年の格) 期限付きで土地の私有を認める法令 新しい灌漑施設を設置した者 (三世), 旧来の灌漑施設を利用した者(一身=本人1代) 743年 墾田永年私財法 (天平十五年の格) 墾田の永久私有を容認、面積には限度あり (政府) 掌握する田地を増加させることで土地支配の強化をはかった . (反応) 貴族 寺社・地方豪族, 国司や郡司の協力を得て大原野を開墾 [22 初期荘園 ※公地公民制の原則が崩れる

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日本史 高校生

歴史総合 教科書の記述問題です。 航路と輸出入品目の関係についてはどのように書けば良いのでしょうか?

② 交通手段の革新は世界各地を貿易で結びつけた。 Cは、 1885 (明治18) 年と1899 (明治32) 年の日本における品 目別の輸出入の割合である。 は、 1885年に設立さ ゆうせん れた日本郵船会社が、 1896(明治29)年までに開設し →p.82 たおもな定期航路を示した地図である。 これらから何 を考えることができるだろうか。 輸出入の総額や品目 の変化、航路と輸出入品目の関係などに注目して、 問 いを表現してみよう。 ロンドン アンドウェルペン セイコ ポートサイド スエズ運河 大西洋 アデン ボンベイ コロンボ シャンハイ 上海 インド洋 ホンコン 香港 シンガポール マニラ シドニー メルボルン よこはま 横浜 日本郵船会社のおもな定期航路 (1896年) ながさき 長崎 3.3. ホノルル 太平洋 シアトル 0 サンフランシスコ 3000km その他 29.7% 輸出品 3,715 万円 銅 5.0% | 石炭 5.3% 水産物 6.9% 茶 18.0% 銅 5.4% 石炭 7.1% 鉄類 3.6% - 石油 5.7% その他 37.0% 輸出品 21,493 万円 絹織物 8.1%- 綿糸 13.3% 1885年 生糸 35.1% 石油 3.7% 毛織物 4.1%- その他 31.6% 綿糸 17.7% 輸入品 2,936 万円 生糸 29.1% -毛織物 9.1% -機械類 6.6% 1899年 砂糖 15.9% 輸入品 22,040 万円 綿織物 - 9.8% ・その他 40.2% 綿織物 4.2%- 明治時代の日本の輸出入の割合 (東洋経済新報社編『日本貿易精覧」より作成) 綿花 28.2% 砂糖 8.0% 機械類 -6.2% -鉄類 5.4%

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日本史 高校生

すみません、答えが分かりません教えてください

1340 1320- ●ポイント 40 20. 室町幕府の成立 ① 10 JAFR MT 【重要用語】 ① 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか。 ようりつ ほくちょう じゅりつ 基盤とし,のち足利氏に擁立されて京都に北朝を樹立した。 □12(大覚寺統 ② 天皇親政の理想をかかげた建武の新政が短期間で崩壊したのはなぜか。 へん けんむ 正中元弘の変を経て鎌倉幕府を滅ぼし, 建武の新政を実現。 □14 ( 挙兵し, 諸国の反幕軍の興起を促した。 建武の新政で重用。 新田義貞 こうき うなが 15 1305~58 鎌倉幕府の有力御家人であったが,元 ろくはらたんだい りはん 弘の変で六波羅探題を攻略し, 新政に参加。 のち離反。 60 1301~38 鎌倉幕府の御家人。 元弘の変で鎌倉を あしかがたかうじ 攻撃し幕府を滅ぼした。 建武の新政で足利尊氏と対立。 170 がわら らくしょ 〕 1334年京都二条河原に立てられた落書で, 建武 ふうし ねんかん き 新政権下の混乱ぶりを風刺した。 「建武年間記』 に収められる。 こうごん □180 1321~80 足利尊氏に擁立され持明院統から光厳 せいい 天皇のあとを継ぎ即位。 1338年尊氏を征夷大将軍に任命した。 90 よしの 〕 1336年, 後醍醐天皇が吉野に開いた大覚寺統の ・朝廷。 北朝を擁立する室町幕府と争い, 南北朝の動乱を現出。 にかいどうぜえん ) 1336年,足利尊氏が二階堂暮らに諮問し,替 鎌 倉 幕 府 ③ 南北朝の分立とはどのようなものであったか。 尊 だいかくじとう 13 (後醍醐天皇) 1288~1339 笑覚寺統から即位。 親政を行い, しん しせい 申された室町幕府の施政方針。 11 じんのうしょうとう き 中心人物。 南朝の正統を主張した 『神皇正統記』を著した。 氏 □120 こうのもろなお しゅうしゅう 氏の執事 高師直と直義の対立に始まり、尊氏の直義毒殺で収拾。 じみょういん 基盤とし、鎌倉幕府の干渉により持明院統と交代で皇位についた。 20. 室町幕府の成立 ① 建武の新政と南北朝の内乱 MARCUSKE AT ごふかくさ こうとう ちょうこうどう 後深草天皇に始まる皇統。 長講堂領を経済的 かめやま はちじょうにょいん 亀山天皇に始まる皇統。 八条女院領を経済的 かわち どう ごだいご おう 】1294~1336 河内の土豪。 後醍醐天皇に呼応して 朝 大覚寺統] 後醍醐天皇 ごむらかみ 1293~1354 後醍醐・ 後村上天皇に仕えた南朝の 文保の和談 南北朝の内乱 ただよし 1350~52年の足利尊氏と弟直義の対立抗争。尊 6 with (両統) 1迭立 後醍醐天皇吉野に移る 南関東・九州で 戦う 正中の変 元弘の変 <建武の新政 (二条河原の落書) 筑後川の戦い (菊池氏) 「持明院統」 尊氏入京、 光明天皇擁立 建武式目制定 北 室町幕府 尊氏, 一時帰伏朝 半済令 一観応の擾乱 守護大名 りょうとうてつりつ ◆両統迭立 持明院統と大覚寺統が皇位を争っ たため, 1317年幕府の仲介で文 保の和談が成立し, 両が交代で 皇位につくこととなった。 したかとき 北条高時 たかすけ 鎌倉幕府14代執権で、最後の得 宗。 内管領長崎高資に実権を握 られ、幕政を乱した。 もり ◆◆護良親王 後醍醐天皇の皇子。 父を助け討幕 運動に活躍し、 建武新政府で征夷 大将軍となるが、足利尊氏と対立 ゆうへ なかせん し失脚。鎌倉に幽閉され、中先 代の乱の時足利直義に殺害された。 いらいついか ◆建武以来追加 しきもぐ> じょうえい 建武式目は施政方針を述べたもの で, 基本法としては永式目が 用いられた。そして貞永式目の追 加や修正は、建武以来追加といわ たいへいき ぱいしょうろん 「太平記」と「梅松論」 どちらも南北朝の動乱を題材とし また軍記物語であるが、 「太平記」 は 南朝の側から,「梅松論」は足利尊 氏の側から描かれ、 好対照をなす。 〔地方〕 建武政府の職制 天皇 〔中央〕 国司・守護 ( 陸奥将軍府 鎌倉将軍府 -武者所(警備) しゃどころ 雑訴決断所 ぎつけっぱんしょ T恩賞方(思食事」 記録所(重要政

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