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かき
むこうだ くにこ
字のない葉書 向田邦子
死んだ父は筆まめな人であった。
私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会
社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
「向田邦子殿」
と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘宛ての手紙に「殿」を
使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
「おい、邦子!」
む
[目標 ]
5
●随筆の味わい方を知り、日常
生かす。
●文章の構成や、人物や出来事
きの表現から、筆者の思いを
2 女学校 ここでは、
小学校六年を終え
等教育を施した学校
のとき一家は父の転
移っていたが、筆者は
都合で父の前任地に硝
2 三日にあげず意
人間のきずな字のない葉書
07
と呼び捨てにされ、「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の
変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
文面も、折り目正しい時候の挨拶に始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の 10
種類まで書いてあった。文中、私を貴女とよび、
あなた
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓も添えられていた。
あった。
ふんどし一つて家中を歩き回り、 大酒を飲み、 かんしゃくを起こして母や子供たちに手を
上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこに
暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか十三歳の娘に手
紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日頃気恥ずかしくて演じられない父親を、手
紙の中でやってみたのかもしれない。最小
手紙は一日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴム
て束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへいってしまった。父は
六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになるが、優
しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをといわれれば、父が宛名を書き、妹が 「文
面」を書いた、あの葉書ということになろう。
終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。 すでに前の
年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だ
というので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ
焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャ
ラコ肌着を縫って名札を付け、父はおびただしい葉書にきちょうめんな筆で自分宛ての宛
名を書いた。
5
3 おろそか 類
9 こそばゆい 意
4殿
挨アイ
デン
との
との
44 学童疎開 空襲などによる戦災
を避けるため、大都市の学童を
地方都市や農山漁村へ移住させ
ること。
16 三月十日の東京大空襲 四十平
方キロメートルが焼失し、 十万
人が死亡、百万人が焼け出され
たと推定される。
18 暗幕を垂らした暗い電灯 夜間、
敵の空襲に備えて、光が外にも
れないようにしていた。
10 18 キャラコ 薄くて光沢のある白
木綿地。
7 命からがら意
1989 おびただしい意
照れ性(てれショウ)
・儀
他人行儀
肌はだ
肌着
1622
~殿
アイサツ
挨拶
挨拶