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A
ミハンの孫で, モンゴル帝国の息帝となったフビライ=ハンは, 都を大都(北京)に移し,
ことができず, 暴風雨による大損害をうけて引きあげた。
B
、ロソリ料吉の時代は, 儒学を学ぶことがすすめられ, 儒学の中でもとくに身分秩序を重視する朱子学が
広まった。綱吉は湯島に孔子をまつる聖堂を建てるなど武士に学問を奨励し,各藩もまた藩校を建てる
よど武士の教育に力を入れるようになった。一方この時代は上方を中心とする商業の発達と都市の繁栄
によって, 経済力を持った町人を担い手とする文化が花開いた。この文化の中心人物として,浮世卓子
と呼ばれる小説をえがいた井原西鶴や, 義理と人情のあいだで板ばさみになる男女の姿を人形浄増留場の
台本にえがいた近松門左衛門, 日本各地を旅しながら俳譜を芸術にまで高めた松尾芭蕉,そしてO役省
絵や『見返り美人図』などの美人画をえがいた人物などがあげられる。
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の中
聖武天皇の時代は, 都を中心として仏教と ( 2 )の影響を強く受けた国際的な文化が栄えた時代
である。聖武天皇と光明皇后は; 仏数の力で伝染病や災害などから国を守ろうと考え, ②東大寺に大仏
をつくり、地方には国ごとに国分寺と国分尼寺を建てた。さらに正式な戒律を授けてもらうため,
( 2 )の僧である鑑真を日本に招くなど, 寺院や僧の制度が整えられた。この時代の文化が国際色
豊かなものであったことは, 聖武天皇の死後,正倉院におさめられた道具や楽器など,聖武天皇の身の
まわりの品々のなかに, ( 2 )や朝鮮半島のものだけではなく, 西アジアやインドなどから( 2)
C
にもたらされた品もみられることからもわかる。
D
の保元の乱と平治の乱という権力の座をめぐる二つの内乱に勝利した平清盛は,後白河何上皇の院政を
助けつつ, 武士として初めて太政大臣となるなど政治の実権を握った。これにともない清盛の一族た
も高い官職や位につき, 広大な荘園と多くの国々を支配するようになった。さらに, 清盛は自分の娘
高倉天皇のきさきとして, 生まれた子を天皇とするなど平氏一族は栄華をほこった。平氏政権の経済
基盤は,各地の公領や荘園からの収入, そして ( 3 ) との貿易による大きな利益であった。清盛
航路の安全を確保するため瀬戸内海の航路を整備し, 兵庫の港(大輪田泊)を修築するなど,( 3
との貿易に力を入れた。 ち