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【幕藩体制下の日本】
1 日本では、豊臣秀吉の死後に徳川家康が( ① )に任じられて、江戸幕府を開いた。 江戸幕府が各地の大名
家藩)を従える統治体制を(②)と呼ぶ。 大名は領地の支配を認められた代わりに、 将軍に対して(③)
(土木工事) などを含む軍役を務めた。
2 徳川家康は、対馬の(④)を通して朝鮮と(⑤)(⑥)の役の講和を実現し、対馬藩に朝鮮との通交・
貿易の独占を認めた。
3 2代将軍秀忠や3代将軍家光はキリスト教の禁止を強化しつつ大名の統制を強めた。 1635年には諸大名
(7)を義務づけた。
4 江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダ商館を(8)の出島へ移した。
5 幕府はキリスト教を厳禁し、)を制度化し、すべての人が仏教寺院の⑩)となることを義務づけた。
日本への通商の要求と対応】
1 1792年、 根室に来航したロシア使節( 11 )に対して、江戸幕府は長崎で交渉するとした。 これに従って
1804年に長崎に来航した使節(1)に対し、幕府は「鎖国」が「祖法」であるとして通商を拒絶した。
2 幕府は1825年に(1)を出したが、アヘン戦争の戦況が伝わると、軍事攻撃を受けてその権威が傷つく
事を恐れ、 1842年に(1)を出した。 一方で、 水戸藩は(1)を契機に尊王攘夷論が提唱されていた。
3 アメリカは、太平洋を渡り中国と往復する汽船が石炭・水の補給のために日本に寄港をすることを認めさせ
ようと、オランダ商館経由で幕府に予告した上で、 大統領の国書を託した ( 15 )を派遣した。
リーの来航】
4
11853年に江戸湾口に現れたペリー艦隊は、日本側を威嚇して大統領の国書を受け取らせ、翌年の返答を
約束させ退去した。
2 老中首座(⑩)は、ペリーの要求を朝廷に報告し、諸大名らに意見を求めた。 ペリーが1854年に再来航
すると、幕府は(1)を結んだ。
3 (17)では、アメリカ船が下田・箱館に寄港すること、 日本側が漂流者を保護すること、下田へのアメリ
カ官吏の駐在、(1)などを認めたが、通商は認めていなかった。
開国前に、鉄製大砲を鋳造するための(1)の建設など、 すでに西洋軍事技術の導
入が始まっていたが、開国後には、幕府は(2)と講武所を設け、 長崎でオランダ海軍派遣隊による汽走
軍艦を用いる海軍伝習を行なった。
5 ペリーは(1)を結んだ直後に、 琉球との間に通商を認める(2)を結んだ。