の岩倉使範団
くめくにたけ
使節団員久米邦武の記録
命以来, 欧米諸国では自由や自
がっている。…国民は開墾や事業
かんにはげみ, …すぐれた工芸
そかさはさかんにわき出る。…国
くすれば政府の指導力が弱く
ック 秩序がゆるむ。 一長一短であ
先欧回覧実記』より, 一部要約·
に
おうべい
だいこうさいさく
学習 は、どのような外交政策を進めたでしょうか。
おうべい
欧米諸国と対等の立場に立ちたい新政府は,
新政府の
外交
めい じ
いわくらともみ
どたかよし
(明治4)年,岩倉具視を代表に, 木戸孝 大ク
→p.152
みち人物いとうひろぶみ
753
伊藤博文ら約50名の使節団を約2年間, アメリカとヨー
→p.152
→p.174
いわくら
12
パ諸国に送りました(岩倉使節団。
ばくまつ
えどばく ふ
使節団のおもな目的は,幕末に江戸幕府が欧米諸国と結んた
手条約改正の準備でした。しかし, 条約改正については, 日本
p.151
や制度が整っていないことなどを理由に受け入れられません
こ。その一方,使節団に参加した人々は,欧米諸国の政治のし
くわ
史料
産業,文化を詳しく見て帰り, まず国力を充実させることた
じゅうじつ
あると感じました。そのため, 帰国後は, 近代産業をおこし
せいさく
さかんにする政策をより積極的に進めました。
→p.160
しんしゅうこう
新政府は,1871年,清と対等な条約て
日清修好条規を結んで正式に国交を開き,
可権をたがいに認めました。 当時, 外国と貿易する港には,
しん
清修好条規の
結
にっしんしゅう
→p.109
みと
通訳や従者として多くの中国人を連れてきていました。多
背景には,この中国人と日本人の間で起こった事件につし
をする必要にせまられていたことなじ終