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国語 中学生

1.2枚目は問題文で3枚目が問いです。 答えはウなんですけど、なぜウになるか教えて欲しいです。 急ぎでお願いします!

狩猟採集民は、自然の造った動物や植物のおこぼれにあずかって生きている人々である。自然を意のままに制 御するとか、征服しようとかの考えは最初から考慮の外にある。自然は圧倒的に強く、畏怖する以外に仕方のな はな い対象である。人間より圧倒的に強く、畏怖する対象を神と呼ぶならば、自然物にはすべて神が宿っている。従 ってアニミズムは必然的に多神教的になる。 狩猟採集民が、自然の意味づけをアニミズム的なやり方で行ったのは、けだし当然であろう。そこでは自我も また、自然の中の神々とつながっており、死後の自我の平安と永続性は、このような自然観の下で保証された。 もちろん、このような自然観は、個々人がそのつど考えたものではない。言語や自然観は、ある集団に人間が 生まれついた時から、すでに与えられたものとしてある。すなわち、文化と伝統である。強固な文化と伝統の下 では、人はわざわざ、自己とは何かなどと考える必要はない。 文化と伝統に従うのは、心安らかなことであり、人々はこの中で成長し、老い、心安らかに死んでゆく。 ②よ ほどのことがない限り、これを引っくり返すのは難しい。 現代人の自然観は科学技術文明に支配されている。科学技術の中心思想はコントロールである。人々はこの思 想を忠実に生きている。しかし不幸にもこの思想は、死後の自我の平穏も存在も保証しないので、人々は刹那的 に生きざるを得ないのかも知れない。私がいくら「科学は錯覚である」(私は一九九三年に宝島社から同名の本 を出版した)と言っても、さしあたってどうしようもないのである。 何が人々の自然観を変えるのか。様々な要因を述べることができるだろうし、ある場合には無根拠に変わるの かも知れない。しかし、③技術の発明が少なくとも大きなきっかけになることはまちがいなさそうである。 狩猟採集民に起こった最初の重要な技術は、採集物の貯蔵技術である。 貯蔵技術は定住をうながす。大量の貯 蔵物を携帯して移動することは困難だからである。ひとたび定住すれば、食糧ばかりでなく、それ以外の財狩 猟道具、衣服、装飾具)を保持することも容易になるため、持つ者と持たざる者の格差が発生する。 定住は不平 等を産み出すのである。たくさんの貯蔵食糧と財を所有すれば、当然これらを管理する必要が生ずる。 ここに、 コントロールという思考が芽生える。 貯蔵技術の次に人間が発明したのは農耕技術である。農耕は自然との変革管理なしには行えない。 野原や森林 を切り拓いて、田や畑にする。田畑は放っておくと、原野に戻ろうとするから手入れをしなければならない。自 然のコントロールという思想は、ここに確かなものとなる。しかし、自然は簡単にコントロールできるものでは ない。洪水、ひでり、大地震。 これらは現在でも手に負えない。コントロールしたいが、コントロールできない 自然。農耕民は、自然をコントロールしたいという願望と、コントロール不能な自然とのギャップにはさまれ、 ④非定住狩猟採集民とは少し違った自然観をもつようになる。 定住・農耕は自然の上に立つ神の出現と関係があるように思う。関係があるというのは、もちろん、因果関係 があるという意味ではない。 ⑤定住・農耕は、自然の上に立つ神という考えを受け入れやすい精神状態を作った のではないかということである。 アニミズム的な考えでは、自然はそれ自体が神々であった。一方、自然の上に立つ神は、自然を創造し、自然 を制御する。 ⑥このような神は、自然に対する人々のコントロール願望の反映なのではないだろうか。自分たち が制御できない自然を神に託して、神を崇拝することで、自然を間接的にコントロールしたい。 アニミズムにはおそらく真理という観念はない。多数の神々すなわち自然は、自分勝手に好きなことをして、 人間を楽しませたり、困らせたり、殺したりする。人間もまた神々のネットワークの一部であり、死ねば神々と 同化する。 それに対し自然の上に立つ神では、神の行いと考えが自然現象を決定するわけだから、すなわち、これが真理

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国語 中学生

定期考査の直しで、答えはイなんですけど、なぜいいになるかわかりますか? 急いでます。本当にお願いします

狩猟採集民は、自然の造った動物や植物のおこぼれにあずかって生きている人々である。自然を意のままに制 はな 御するとか、征服しようとかの考えは最初から考慮の外にある。自然は圧倒的に強く、畏怖する以外に仕方のな い対象である。人間より圧倒的に強く、畏怖する対象を神と呼ぶならば、自然物にはすべて神が宿っている。従 ってアニミズムは必然的に多神教的になる。 狩猟採集民が、自然の意味づけをアニミズム的なやり方で行ったのは、けだし当然であろう。 そこでは自我も また、自然の中の神々とつながっており、死後の自我の平安と永続性は、このような自然観の下で保証された。 もちろん、このような自然観は、個々人がそのつど考えたものではない。言語や自然観は、ある集団に人間が 生まれついた時から、すでに与えられたものとしてある。すなわち、文化と伝統である。強固な文化と伝統の下 では、人はわざわざ、自己とは何かなどと考える必要はない。 文化と伝統に従うのは、心安らかなことであり、人々はこの中で成長し、老い、心安らかに死んでゆく。 ②よ ほどのことがない限り、これを引っくり返すのは難しい。 現代人の自然観は科学技術文明に支配されている。科学技術の中心思想はコントロールである。人々はこの思 想を忠実に生きている。しかし不幸にもこの思想は、死後の自我の平穏も存在も保証しないので、人々は刹那的 に生きざるを得ないのかも知れない。私がいくら「科学は錯覚である」(私は一九九三年に宝島社から同名の本 を出版した)と言っても、さしあたってどうしようもないのである。 何が人々の自然観を変えるのか。 様々な要因を述べることができるだろうし、ある場合には無根拠に変わるの かも知れない。しかし、③技術の発明が少なくとも大きなきっかけになることはまちがいなさそうである。 狩猟採集民に起こった最初の重要な技術は、採集物の貯蔵技術である。貯蔵技術は定住をうながす。 大量の貯 蔵物を携帯して移動することは困難だからである。ひとたび定住すれば、食糧ばかりでなく、それ以外の財(狩 猟道具、衣服、装飾具)を保持することも容易になるため、持つ者と持たざる者の格差が発生する。 定住は不平 等を産み出すのである。たくさんの貯蔵食糧と財を所有すれば、当然これらを管理する必要が生ずる。ここに、 コントロールという思考が芽生える。 貯蔵技術の次に人間が発明したのは農耕技術である。農耕は自然との変革管理なしには行えない。 野原や森林 を切り拓いて、田や畑にする。田畑は放っておくと、原野に戻ろうとするから手入れをしなければならない。自 然のコントロールという思想は、ここに確かなものとなる。しかし、自然は簡単にコントロールできるものでは ない。洪水、ひでり、大地震。 これらは現在でも手に負えない。コントロールしたいが、コントロールできない 自然。農耕民は、自然をコントロールしたいという願望と、コントロール不能な自然とのギャップにはさまれ、 ⑨非定住狩猟採集民とは少し違った自然観をもつようになる。 定住・農耕は自然の上に立つ神の出現と関係があるように思う。関係があるというのは、もちろん、因果関係 があるという意味ではない。⑤定住・農耕は、自然の上に立つ神という考えを受け入れやすい精神状態を作った のではないかということである。 アニミズム的な考えでは、自然はそれ自体が神々であった。一方、自然の上に立つ神は、自然を創造し、自然 を制御する。 ⑥このような神は、自然に対する人々のコントロール願望の反映なのではないだろうか。自分たち が制御できない自然を神に託して、神を崇拝することで、自然を間接的にコントロールしたい。 アニミズムにはおそらく真理という観念はない。多数の神々すなわち自然は、自分勝手に好きなことをして、 同化する。 人間を楽しませたり、困らせたり、殺したりする。 人間もまた神々のネットワークの一部であり、死ねば神々と それに対し自然の上に立つ神では、神の行いと考えが自然現象を決定するわけだから、すなわち、これが真理

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国語 中学生

国語の受験問題集をやっていたらめちゃくちゃ難しくて長い問題に出会ったんですけど、(早稲田高)こうゆう問題ってどうやって取り掛かったらいいんですかね、

-1 をとらえる ると、「母に聞け」とおっしゃる。に問うと、「物を人に下さるのが我が子でし Aう」と申すので、(留志長者は)とうしようもない。「腰のところこ黒子という に。H 産を放策するように命」たSP はなく、帝釈は留志長者の姿をして教案したのである。オ「母親を使って」は、 の問柄における事態である。 したがって、自分の存在が承認され、青定されるためには、特定の 個人との問柄での個人的役割の迷行が不可欠である。こうした特定の 人との問柄における相互承認こそが、互いに相手の代替不能性の承認如 をともない、翻って各自の存在の取り替えのきかなさを認めあうこと てよい。と背定されるということは、あくまで具体的な生身の個人と 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 eさまざまな仕事のあいだには、そのきつさの違いもあれば、見返 り(酬)の違いも存在する。しかしながら、そうしたさまざまな仕事 は、それぞれに相互に佐存しあい、全体として複雑な協業を構成して 仕事について働くということは、そうした相互佐存のネットワーク に自ら歳動的に参与する、ということに他ならない。まな他のもろも ろの話動が可能となるための条件となる。自分の話動が、こうした相一 互佐存のネットワークの網目の一つを織り成すようになる、というこ」 とが、すなおも任事をもって働くということなのである。 こうした事情は、経済学の分野では、「社会的に有用な労働」が仕事2 である、という言い方で表現されたりもする。しかし「社会的に有用」 ということの眼目は「誰もが必要とするもの、必要とするようになり 少うるものを作り、届ける」というところにあるのであって、全社会的 に注目されるような顕著な有用性ということではない。 したがって、さまざまな社会的な役割の中でも、経済活動においてじ 自分のいる位置を示す役割は、格段の意義を有している。この役割を 負うことによって、どんなに見知らぬ他人を前にしても、その人に対一 してその人が必要とするもの。必要とすることがありうるものを 提供する者として ある、ということを相互に確認できるようにな る。すなわち。こうした役割は、人間としての社会的な存在を相互に 河 本認しあうときの、もっとも香遍的な足場を与えてくれる につながる。 しかしながら、もし、特定の個人に対する、個人的な役割の遂行が すべてであった、としよう。そのときには、人は個人的な信頼が成り 立っている親密置に引きこもることになる。こうなると、それぞれにお とって、“相手に映っているであろう自分。 の姿を確かめようとする ことが、もっぱらの関心となる。ところが、その場合、各自は「私は一 相手にとって○Oである」という以外の仕方では存在しえない。のみ ならず、相手のほうもまた、「私にとって××である」という以外の仕」 方では存在しえない。 こうなると、それぞれが、合わせ鏡もさながらの、確たる像の見え ない不安と苛立ちをぶつけあうことになる。 「あなた」·「私」という対面の問柄における対他存在の承認は、 自分と相手とを共に包んでいる、より大きなつながりのなかに係留さ れて、はじめて限定され安定したものとなる。それぞれが異なる社会 お 的な役割を負っていることを理解し、対画で向かい合っているだけで は見えない相手の姿が理解できるようになってこそ、対面の間柄も 合わせ鏡のように向かい合うだけではない、安定したものとなる。し 、 に有な仕事は、 承器の足島ではあっても、 社会的 分の存在が承認され育定されるためには、 他方では不特動 S 第人ととのあいだでの皆 登割を 是行するこ て、 pir.fr ktyo い でn5 ムク う 業のネットワークにおいて、しかるべき一つの網目となるというこ ととであり、相互性の射程がもっとも広い役割であった。したがって 仕事をもつという殺票を引き受け、運行していくことは、互いの存在琴 を相足に承認するためには欠かしえない意義を有している。 しかし、だからと言って、仕事さえこなしていれば、自分の存在が 承認され、育定されるということにはならない。いま、ある人が、仕 多に打ち込んで、まもがる要とするもの、必要としうるものを提供す るをこなしている。とする。しかし、もしそれだけであるなら、 S 三個人としての縦的な存在氷認には光分ではない S に代表されるよう 的 は、あくまで不物 定の他者に対する であり、その役置を負うのが道であるかという ことは、人的な のように本質的な題にならないからである。 永存しあっている他人が不称定のままであるかぎり、あなた自身もまば 行するのは、他の誰でもないあなたであり、あなたという人は一人し かいない。このことが認められ背定されないのなら、自分の存在が認 められたことにはならない。 しかし、そうした唯一性の承認も、自分ひとりで紡ぎ出すことはで きない。「他の誰でもない、他ならぬあなた」という呼びかけは、過 去から現在にいたるまで、そうした個人的な役割を引き受けあい。認5 めあった中から生じる呼びかけであり、そうした呼びかけに応えて、 未来に統いている関わり合い(コミットメント)を引き受けていくこと なしには、唯一性の承認が生じることもない。(中略) A_とのあいだで対人的な役割を引き受け逃行 口とのあいだでの社会的役割を遂行することは、 その人の存在の承認を可能にする。いわば車の両輪であって、そのど ちらが欠けても、対他存在の承認は不安定になり、ここで こうし 1 S人にとどまる。 その場合には、手にとっては目の属にいるのが、あなたでなくと 1電はに でり立つのは、 たかだか 「〇Oの提供者」 ーOOS(輪) 」という。 士の係でしかない。 し かるに、そうした 士の担依存的な開係だけでは、人質として の対存在の都年米認には十分ではない ていてよい。と安場しうる居場所は危うくなる。(中略) 改めて言うまでもなく、生存を確保するという観点から見れば、 仕事について働くということは、生活を維持し再生産するためのをお 得るための活動である。しかし、そのつど他者に対して何ものかとして ある。という人間としての存在という観点から見るならば、何らかの 仕事について働くということは、ごくかぎられた人々との個人的な問柄 を離れても、すなわち見知らぬ不特定の人々に対しても、そのつど他 者に対して一何ものかとして一ある。という自分の存在が確証さ れる。ということに他ならない。このように仕事について働くというこ とは、生き延びるための手段には尽きない意味をもっている。(中略) かくして私たちは、っ人は、生きtるために働かoるをえない。とい う。あの圧側的なまでに正しく響く答えについても、今や次のように 私たちは、 みなを 物、そのつどそのつ ま らにを運行している。 しかし、 私もあなたも、 そうしたな 第の東に尽きるのではない。あなたも。時間の移,場術の変化とと 中業 をこなしている。 そのとき、 あなたが 「役を選 」であって、あなたが 「役である」のではない ) 中る、 あるいは使する」という役だけに注目すれ *に するのは、 あなたでなく ない。あなたの 単は 戦こなせるひとはたくさんいるしかし、役を )A中きる。生きる)とは、働くことと男のことではない。働 A1A)世事に、生きるということがあって、 働くこと

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