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社会が変化とは、なにがおこっていたのでしょうか?

つんでま 宋や高麗 しばしば 日本で した。 風の文 した。 としな み出 に最 4 教養や才能のある女性が集められ, 紫式部の「源氏物語」や, せいしょうなごん ずいひつ まくらのそうし 5 清少納言の随筆 「枕草子」 などが生み出されました。こうした 女性による仮名文学が多いことも,国風文化の特徴です。 とくちょう それまで唐風だった天皇や貴族の服装は、省略されたり変形 されたりして、ゆったりとした独自のものになりました。 貴族 の住宅は,一つ一つの建物が廊下で結ばれ,広い庭や池が備え しんでんづくり ② 10 られるようになりました ( 寝殿造)。 浄土信仰 貴族は,この世での幸福や社会の安定を願 てんだいしゅう しんごんしゅう って、天台宗や真言宗の祈とうなどにたよ な行事を行っていま 鏡もち 七草がゆ . 盆などは,平安時 です。 この中には 国から伝わって ありました。 りました。 しかし, 社会が変化し, 人々の心に不安な気持ちが あみだにょらい 高まると, 10世紀半ばには, 念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり, ごくらくじょうど よう ど しんこう 15 死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う浄土信仰が都でおこ りました。 11世紀になると, 浄土信仰は地方にも広まりました。 巻頭12 ふじわらのよりみち びょうどういんほうおうどう 12 藤原頼通が造らせた, 宇治 (京都府) の平等院鳳凰堂は,このこ ろを代表する阿弥陀堂です。 国風文化の具体例を, 本文からぬき出しまし ぎお 祇園御 学芸術資 1男性貴 した。 ② 室内 なく、 りまし てんじょう 国風文化の特色を 天平文化

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(3)が分からないのですが、教えていただきたいです。

<栃木県〉[10点×3] 次の文章を読んで、あとの各問いに答えなさい。 昔、孔子に、一人有って来帰す。孔子、問うていはく、「汝、何を以て かつて我に帰する。」かの俗いはく、「君子参内の時、これを見しに、 題々として威勢あり。 よって、これに帰す。」 孔子、弟子をして、乗り物・ ざいもつ 装束・金銀・財物等を取り出だして、これをあたへき。 「汝、我に帰する にあらず。」 かなへどの さう また、宇治の関白殿、ある時、鼎殿に到つて、火をたくところを見る。 鼎殿見ていはく、「何者ぞ、左右なく御所の鼎殿へ入るは。」といって、追 ひ出されて後、さきの悪き衣服を脱ぎ改めて、顒々として取り装束して 出て給ふ。時に、さきの鼎殿、はるかに見て、恐れ入って逃げぬ。時に、 殿下、装束を竿に掛けられて、拝せられけり。人、これを問ふ。答へて いはく、「我、人に貴びらるるも、我が徳にあらず。ただ、この装束の故 なり。」 愚かなる者の人を貴ぶこと、かくのごとし。 しょうぼうげんぞうすいもんき (「正法眼蔵随聞記」より) *来帰す… 弟子入りするためにやって来た。 *君子参内の時… 孔子が王宮に参上する時。 ふじわのよりみち 宇治の関白殿・・・藤原頼通。 平安時代の貴族。 *鼎殿…湯を沸かす所。また、そこに勤める役人。 *左右なく・・・断りなしに。 ぎょうぎょう 三 *俗・・・世間並みの普通の人。 *顒々として・・・おごそかな様子で。 *取り装束して・・・装束を身に付けて。 17.0% —線部 1 一見し」 人物の組み合わせとして適切なものはどれか。 次のア~エから一つ選 び、記号で答えなさい。 イ 孔子―鼎殿 ア孔子宇治の関白殿 ウかの俗 宇治の関白殿 エかの俗―鼎殿 ――線部 ③ 「はるかに見て、恐れ入つて逃げぬ」 とあるが、「鼎殿」 は何を見て逃げたのか。 二十字以内の現代語で書きなさい。 次の漢文と解説文を読んで、あとの各問いに答えなさい。 〈兵庫県〉[110点 ⑥100点×2③10点] これ 人主の患は、之に応ずるもの莫きに在り。故に曰はく、「一手独り 拍つは、疾しと雖も声無し。」と。人臣の憂ひは、一を得ざるに在り。 故に曰はく、「右手に円を画き、左手に方を画くは、 両つながらは成 あた す能はず。」と。 キニ ズルモノ 人 (3) 主 えの 之 ゑが 11 oft [

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高校入試の過去問をやっています。 社会の問題について教えてください。 大問3-(1)で、自分は「唐の進んだ文化や考えを日本に取り入れるため」と解答しましたが、解答例は、「唐の新しい知識や技術、制度を学ぶため」となっていました。自分の答えは不正解でしょうか?

歴史の資料に関する以下の問いに答えなさい。 まさきさんは、「海外で活躍した日本人」 をテーマに資料A· Bを作成した。 これらについ 3 問1 て, (1)~(5)の問いに答えなさい。 資料A の阿倍仲麻呂について ] (28世紀はじめに遺店使とともに派遣された留学生で, 吊の長安で皇帝に 重く用いられた。左は百人一首の読み札で, ふるさとへの思いをよんだ阿倍 仲麻呂の和歌が書かれている。 遺唐使の航路 X [ 遺唐使について ] 造唐使の派遣は7世紀からはじまり, 当初は朝鮮半鳥沿岸 を通るIの航路をとった。 8世紀から9世紀にかけてはIの 航路がとられた。 長安 資料B 山田長政について ] 17世紀はじめにシャム (タイ)に渡って, アユタヤの日本町の指導者とな り、シャムの王室の信頼を得て高い位についた。 左はアユタヤにある山田長 政の像である。 17世紀前半の東南アジアの 主な日本人居住地 う、 E 日本町について] 17世紀前半には, 朱印船貿易が活発に行われ、 東南アジア 各地に日本町が形成されるなど、 海外に移住する日本人も増 えた。江戸幕府がら鎖国体制をとると, 日本町は急速に変え え 5 ていった。 (1) 下線部①について, 阿倍仲麻昌のような留学生や遺店使が、 唐に派遣された目的を, 簡潔に 書きなさい。 (2) 下線部2について, 8世紀の日本回内の政治情勢について述べた文として最も適切なもの を,次のアーエから1つ選び, 記号を書きなさい。 ア.聖武大皇は仏教の力で国家を安定させるため、 国分寺や国分尼寺を作らせた。 イ、菅原道真が遺唐使の派遣停止を提案した。 ウ、静土信仰の流行もあり、 藤原頼通が阿外陀堂を建てた。 エ. 日未貿易を行った平清盛は、 瀬戸内海航路の要所である厳島神社を整備した。 社7- 天の原 ふSれけ見れば 回なる 川でし月かも

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