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教えてください!お願いします!

FI127-b 文章を読み、問題に答え さて、では、その”ひづめ"を持ったものたちの中で、最も走るのが 得意な動物は一体なにか? てきおう □のに適応するほど[ 答えは、指が一本しかないウマだ。「指の数の少ない動物ほど走るのが 得意」なのである。言い方を変えれば、 ほご そせん せっち ぜんしんせい が減っていく」のだ。走るには、足の接地面積が小さくて、その足をシ ッカリと保護するものがあり、かつ足先がバラけていない方がいいのだ 利世時 ウマの、ひとつしかない大きな〝ひづめ"は中指で、他の指は てなくなっている。ウマの祖先をたどると、最古のウマである 代のエオヒップスは指四本(約六〇〇〇万年前)、漸新世のメソヒップス て指三本になり(約二五〇〇万~四〇〇〇万年前)、鮮新世のプリオヒッ プスで指一本(約六〇〇万年前)と、だんだんと減っている。森の中の 生活から草原での生活に変わるにつれ、走ることに適応しながら進化を 続けてきたのである。 せんしんせい 指一本の動物は世界中にウマしかいない。そのウマを家畜化し、も と速い足と持続力を持つように改良してサラブレッドを作りだし競走馬 きょうそうば 2せんじん *3どうさつりょく *4だつぼう にした先人たちの洞察力。つらつら考えるに、これは脱帽ものである。 きょうそうば せんじん *ーサラブレッド…イギリスで作られた競走馬。 *2先人…昔の どうさつりょく だっぽう こうさん けいい ひょう *3洞察力…物事を見ぬく力。 *4脱帽もの…降参して敬意を表すること。 さいてき 小文章中の ] に最適な言葉をそれぞれ書きなさい。 おう のに適応するほど | が減っていく」] たいか ウマの中指以外の指が退化したことは、言いかえれば、どういうことに なりますか。 ウマが、走ることに © 2014 Kumon Institute of Education たということ。

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国語 中学生

なぜこの答えだとダメなのか教えて欲しいです

「裸足で薊を踏んづける!」 少年時代、よく友達と遊んでいた原っぱの片隅に、美しい紫色の花の一群がありました。かなりの丈がある濃い緑色の 茎の先端に細い筒状の花びらがふわふわと広がっていて、それが春の風に揺れるのです。うまくすると、花の周囲を舞 アゲハチョウを捕まえることもできました。ただ、下手に触れるととげが刺さって、痛い思いをしたものです。 やがて、その花がアザミとよばれていることを私は知りました。漢字で書いたらどうなるのだろう。そう思って、花の 姿や名前の音にふさわしい文字の組み合わせを考えてみたのですが、なかなかうまくいかず、アザミはその後も、頭の中 片仮名の花として咲いていました。 ところが、ある日、それが「薊」という漢字になって、心に刻まれることになったのです。小学校を卒業した直後の春 休みだったでしょうか、町の図書館でたまたま手に取った宮沢賢治の本に、「種山ヶ原」と題された物語が収められてい ました。達二という名の主人公が、逃げ出した牛を山の中まで追っていく場面があって、そこにこんな一節が出てきたの です。 「ところがその道のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、オトコエシや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つ にも分かれてしまって、どれがどれやらいっこう分からなくなってしまいました。」 難しい表現は全く使われていません。詩のようにきらびやかな言葉もありません。それなのに、私はこの文章の不思議 な魅力に捕らわれてしまったのです。なぜ心ひかれるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、何度か読み返すう ち、この一文の光が、「すてきに背高の薊」という表現から発せられていることに気づいたのです。 「すてき」も「背高」も、個別には知っていた単語です。けれど、両者を組み合わせて、アザミのような花の上に載せ るなんて、想像したことさえありませんでした。「すばらしく背の高いアザミ」と書いても、意味としては変わらないで しょう。宮沢賢治はそれを短く刈り込んで、言葉に新しい響きを、つまり、これまでにない音楽を生み出してくれたので す。 それから長い時間がたって、高校生になったばかりの頃、私は再び書物の中で、漢字の「薊」に出会うことになりまし た。梶井基次郎の「闇の絵巻」と題された短編を読んだときのことです。真っ暗な闇の中に一歩を踏み出す勇気を、主人 はこんなたとえで表現していました。 私は呆然としました。裸足で薊を踏んづけるほどの勇気とは! 宮沢賢治の作品を通じて、アザミは明るい光の中では っきり目に見える紫色の、「すてきに背高の」、明るい陽のもとで映える花として心に刻まれていました。梶井基次郎は、 そこにもう一つ、まるで正反対の、闇に沈んだ見えない「薊」というイメージを付け加えてくれたのです。その見えない 色の、なんと鮮やかなことでしょう。おまけに、とげを踏み抜いた足の裏の感触まで生々しく伝わってくるようです。 少年の頃に私が見ていた野の花としてのアザミは、優れた二人の書き手の作品のおかげで、明と暗を持つ、言葉として の「薊」になりました。異なる文脈で出会ったことによって、「薊」は私の心の中で、より豊かな花に育っていったので す。 興味深いのは、言葉としての「薊」の色が深まるにつれて、原っぱに咲いている本物の「アザミ」も美しさを増してい ったことです。つまり、二つの「薊」は、世界の見方を変えてくれたのです。本を読み、言葉に触れ、言葉を育てていく 喜びは、こんなふうに、見慣れていた光景に新しい光が当てられる様子を、驚きをもって眺めることにあるのではないで しょうか。(「二つのアザミ」 堀江敏幸)

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