第1章 説明的文章国
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のがいちばん経済的てあることは、すぐにわかるであろう。
第一に、自分がなにを信じている(いない)のか、それがきわめてわか
必要がない。第一三に、仮になにかを信じたときに起こりうる、「だまされ 8
た」という問題を避けることがてきる。信じなきゃ、だまされない。
宗教について尋ねられると、日本人はしばしば自分は「無宗教」だと述
べる。相手が外国人でもなければ、ふだんそんなことを訊かれることはな
い。それを訊かれて、あらためて考えてみると、
「ハテ、俺の宗旨旨はなんだったっけ」
基本問題,
りやすい。第二に、どういう教義内容を信じたらいいのか、それを考える
想
次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
、なぜ日本人は「自分には思想はない」と思いたがるのか。
一つには、それが謙虚な態度に見えるからてあろう。世間て生きていく
には、謙虚に見えることは、処世術として大切なことである。
「思想なんて、そんなむずかしいもの、私に処理できるはずがないじゃな
いてすか。そんな高級なソフトは、私の脳に入っていません」
ということになる。そこでいわば正直に答えようとすると、つい、
「無宗教です」
人によっては、そんなことをいう。
もう一つは、「自分に思想はない」と思ったときから、それ以上、思想
について考える必要がなくなるからてあろう。考えるというのは億劫なも
のて、それこそあれこれ考えるくらいなら、「やってしまったほうが早い」。
それだけてはない。論理的にも、「自分には思想がない」という思想は、e
もっとも経済的な思想である。なぜなら、そう思ったときには、他の思想
と答えることになる。すると、相手は仰天したりするのである。これだけ
まじめそうで、悪いことなんてとうていやリそうもない人が、なんてアン
チ·クリストなんだろう。アメリカのファンダメンタリストでなくても、
ふつうのキリスト教の常識人なら、そう思うに違いない。外国の「無宗教」
とは、確信犯としての無宗教、「思想としての無宗教」だからである。
そういうわけて、日本人はたいてい無宗教、無思想、無哲学だと主張す
る。それが日本の宗教、日本の思想、日本の哲学てある。私はそう思う。
すてに述べてきたように、これはなかなか合理的な考え方である。宗教、
思想、哲学といった類のものを無理して持たなければ、とくに考える必要
も、具合の悪いところをあえて訂正する必要もない。必要ならなにかの思
想を借りておけばいい。その借り物がとことん具合が悪くなったら、「取
り替えれば済む」。それが明治維新であり、戦後ではないか。
についても、自分の思想についても、もはやその内容を考える必要がなく
なるからてある。「ない」ものについて、考えることはてきないてはないか。
日本の場合、信仰もこれと同じてある。世界にはさまざまな宗教がある。
しかしほとんどの日本人は特定の宗教の信者ではない。なぜかというと、s
「困ったときの神頼み」て、都合によりどの神仏を信じてもいいからてあ
る。ということは、要するにどれも信じていないから、ということもてき
る。具体的にいうなら、「特定の宗教を信じない」という態度を採用する。
そういう態度をとれば、どの宗教にも深人りしないて済む。「なにかを信
じる」なら、
Tなにも信じないことを信じる」
(注) ファンダメンタリスト= 聖書の記述を固く信じている人。
《養老子孟司「無思想の発見」より)
理由> 線の「なぜ日本人は「自分には思想は、
るのか。」と土