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「自分の考えを表現しよう
支倉常長の肖像画は
なぜ傷んでしまったのか?
~仙台藩が派遣した慶長遣欧使節~
歴史の謎
・絵の中央タテに大きく折れたような線が
入っている
・この絵は、国宝のうえ、ユネスコの
「世界の記憶」に登録されている
重要な文化財
なぜ!?
支倉常長の肖像画
この部分
発表
1年1組 Aチーム
仮説
・小学校の時に、江戸時代はキリスト教が禁止されていたと学習
キリスト教に関係するものが描かれているから折られてしまった? ②
調査方法
① 仙台市博物館を訪問 (文化財・資料調査)
・・・支倉常長の肖像画の実物や、 関連の文化財を見る
書籍などの資料を調べたり、 学芸員さんに質問したりする
仙台藩の資料も充実しているので、ヒントがないか確認
①
② 仙台市内のお寺 光明寺を訪問 (史跡調査)
・・・諸説ある支倉常長のお墓といわれているうちの一つを見る
常長のその後についてなど、 分かることがあるか調査
3
調査結果
①支倉常長ってどんな人物?
・伊達政宗に仕えた安土桃山~江戸時代の仙台藩の武士
慶長遣欧使節としてメキシコやスペイン・イタリアなどへ渡航
②遣欧使節の目的
・メキシコと仙台藩の直接貿易と, 仙台藩への宣教師の派遣を
頼みに行った
③旅の行程
④遣欧使節の成果
・メキシコとの直接貿易と
仙台藩への宣教師派遣は
達成できなかった
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・常長たちにローマ市の
市民権が授与された
・常長の持ち帰った品々は、
のちに「世界の記憶」 となる
など、 歴史的価値の高い
ものになった
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⑤ このころの江戸幕府の動き
日本・
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⑥ 常長のその後
・帰国の翌年に死去、帰国後の詳細は残っていない
・常長が日本で再び知られたのは, 明治に入ってから
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・常長のお墓がいくつかあるのも、 帰国後の詳細が
知られていないため
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→仙台藩の動きとは反対に、 江戸幕府は
キリスト教の禁止を進めていった ⑤
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支倉常長のお墓といわれている
石場(撮影: 光明寺)
⑦現在とのつながり
・仙台市の姉妹都市: メキシコアカプルコ市
・・・慶長遣欧使節の来訪がきっかけ。 アカプルコ市へ市民団が来訪
・慶長遣欧使節スペイン訪問 400周年記念など、スペインへの訪問を実施
・ほかにも、バチカン市国やイタリアとも現在も交流が続く
(6)
結論
・支倉常長は、キリスト教徒となってローマ教皇に面会するなど
キリスト教の文化に触れた人物だった
・しかし、常長たちがヨーロッパに向かっている間 江戸幕府は
全国でキリスト教を禁止してしまった
→仙台藩は 十字架に祈る常長の肖像画を隠しておきたかった
ため、人の目に触れないよう折ってしまったのではないか
分からなかったこと ・ 新たな疑問
・帰国してからの支倉常長はどうなったのか
・キリスト教が全国で禁止されたのに、なぜ伊達政宗は
常長たちに帰還するよう伝えなかったのか
今後の課題
・日本の歴史の動きと遣欧使節の関連については調べられない
ことが残った
・一枚の絵から始まった交流の歴史を、これからの
地域と外国との交流にどう生かしていくか考えること
⑦
参考資料
・仙台市博物館 『ジュニア版 支倉常長』 2013年。
・仙台市博物館『伊達政宗の夢 一慶長遣欧使節と南蛮文化』.
2013年。
・仙台市 『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』 2008年。
協力をいただいた方・施設
・仙台市博物館
光明寺
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