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(3)の答えが、エ なんですけど、「ユニークさを結んだ時らしいんですけど、考えるうえで大切な指摘だと分かった」 とかどこから読み取れるんですか?🙇‍♀️

68 の 外国人は驚いて、なんと日本人には誠意がないのだろう、平気でウソ をつくというふうに評価する。 この誤解はかなり困ったものだ。私たちは論理と感情の世界を区別し る 」 す。日本人はそれを見て、とても同意出来ないと首を横に振る。 ているようである。きねをつく人よりもむしろ、拍子おもしろく白取り する人のほうが、仕事としてむつかしくおもしろいのてはなかろうか 受け身の、従の立場のほうが、共同の仕事のなかて、より困難てより愉 快味のある役割であるようだ スイス人のガスカール女史は、その「日本観察ノート」の中で日本人 の返事のアイマイさを批判している。「日本人から、確かな「イエス』 か「ノー」の答えを得ることは、全く不可能なことに属します。《中略》 『ソー、ネー………」といい、頭をかくのてす。とにかくこっちはそれて」 ちっとも利口になるわけのものてもなく、依然として、なにがなにやら わからないままです。日本人とは、なんとややっこしい人でしょう」 この指摘は別に独創的なものても特異なものてもない。しかしそれだ げに、私たち日本人の身振りの、したがって文化の、他国の人によって は理解されえない特異性を浮かび上がらせている。ふだん、私たちは気 づかないが、人の話を聞くとき、たえずあいづちを打っている。心の中 てあいづちを打っている人もいるし、大げさな身振りてあいづちを打っ ている人もいる。無意識であるだけになかなか本人は気づかない。 ラジオ、テレビのプロデューサーがしろうとの出演者に対して「教 育」することの一つはこのあいづちを減らすことてある。画面や声ての あいづちの身振りや 「そう」「はい」という表現は目ざわり耳ざわりて ある。客観的に観察すると、あいづちというのはなにかしら異様に同調 的な態度をきわだたせてしまうのだ。客観的と言ったが、それはひょっ とするとヨーロッパ人の目を私たちの客観の目の中に組み入れてしまっ たということかも知れない。 外国のビジネスマンが商取り引きにやって来る。何か懸命にまくし立 てている。私たちのビジネスマンは相手の熱意に打たれ、思わずあいづ ている。契約について「イエス」か「ノー」と言うのは論理の世界であ る。会話においてあいづちを打つのは感情に基づく社会的表現である。 この両者を巧みに組み合わせることで、むき出しの真実だけてはない人 間的世界に私たちは生きているのだ。 ヨーロッパては相手の感情をくんて、いい振舞いをすることを「タク ト」と言う。一ロにヨーロッパと言ってもいろいろある。アメリカやス イスでは「タクト」は少ない。しかしウィーンやパリでは、日本の繊細 さに負けぬほどのタクトがある。これはどういうことなのか。アメリカ やスイスは、異人種異言語が日常的に接触する国である。ウィーンやパ リては、共同の前提となる統一された文化がある。つまり暗黙の了解が あるので、その暗黙の了解のうちに相手の感情をいたわることが可能な のだ。アメリカでは、まず論理を通さなければ異人種の間の意見の一致 を見ることはてきない。複雑多様な諸国民が激しく交錯しあう現代世界 ては、ヨーロッパ型||というよりアメリカ型の「イエス·オア·ノー」 が前提となることはやむを得ない事情もある。 しかし、共通の前提をつくる作業が今後数十年、数百年たって地球上 にあらわれたとき、微妙な「タクト」が価値を持たないわけてはないし、 まして日本の「あいづち」が愉快な共同作業の一つっの原型として見直さ れぬとは限らない。 してき あんもく い0 0 そ た ろう (多田道太郎 「しぐさの日本文化」) *ボディー.エクスプレッション = 身体による様々な表現。しぐさ。 ちを打ってしまう。それは外国人には確実な「イエス」のしぐさとして 理解される。そして同意のサインをということになって、 ー線部@·@の本文中における意味として最も適切なもの 議や り出 をそれぞれ次からり選び、 品ロn ね とい。 ( n x ~- 6 )

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