日本史
高校生
解決済み

負名と田堵は同じだとネットで見たのですが、ということは同じ人がどっちも兼任してたって言うことですか?

回答

✨ ベストアンサー ✨

結果的に同じになってる感じです。
荘園の増加で口分田の支給が難しくなったので、政府は有力農民(田堵)に土地(名)を支給して、税を確保しました。

そして、名を請け負った人を負名と呼びました。
[蛇足]
これまでは、戸籍から人の支配に基づい課税していましまが、負名体制では、土地(名)を基準とした支配に変わりました。
→日本史上大きなターニングポイントなので、補足しておきます。

浪人

ありがとうございます!結果的には同じなんですね✨
人から土地を基準とした支配に変わったことによる変化はありますか?

生荼

せっかくなので、おさらいしながらまとめていきますね。

まず、負名体制以前は、
・戸籍に基づいて成人男性に課税
・郡司が徴税
・税の種類は租庸調など

しかし、浮浪や逃亡、偽籍などで律令体制の維持が厳しくなります。
→醍醐天皇が延喜の荘園整理令を出すが失敗
また、三善清行の『意見封事十二箇条』にも地方の混乱が記されています。

この流れで、負名体制が出てきます。
・土地を課税対象に。
(戸籍だと偽籍だらけだし、土地を基準にすれば、不正もできないため、安定して徴税可能)
・国司が徴税
・税の種類は官物や臨時雑役

今まで、郡司がやっていた仕事を国司が担うので、その見返りに、政府は国司を優遇します。そしたら、国司は「儲かる美味しい仕事」になりました。
→成功とか重任が行われたのはこのためです。
また、強欲な受領(藤原元命など)も現れます。

この変換期を中世のはじりとする場合があります。

こんな感じでどうでしょうか🙏

浪人

ありがとうございます(>_<)めちゃくちゃ分かりやすいです😭
もうひとつ分からないところがあるんですけど、
負名体制ができたのって後三条天皇のときでは無いんですか?それができた時の時代がいまいちわかってないので教えていただけたら嬉しいです(_ _*))

生荼

902年の醍醐天皇の延喜の荘園整理令が失敗して、負名体制が確立していきます。
→よって、10世紀初め頃に負名体制ははじまります。

そして、後三条天皇といえば、藤原氏と外戚関係を結ばない親政を行ったことと、1069年に延久の荘園整理令を出したことが挙げられます。
→負名体制の始まりとは少し時期がずれますね。

延久の荘園整理令では、不当な荘園の廃止と班田を行わなかったことが特徴として挙げられます。
→藤原氏は荘園を寄進されて力をつけたため、その力を削ぐ目的がありました。

また、後三条天皇の後は院政期に入りますので、朝廷の力も強めるために、公領の確保も行います。
→正当な荘園と公領が両立する、荘園公領制の始まりです。

こんな感じです🙏🙏

浪人

スッキリしました😭本当にありがとうございます🙇‍♀️分かりやすかったですm(*_ _)m

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