日本史
高校生
解決済み

日本史です。
画像に、立憲政友会は憲政党が解党して合体したとあるのですが、これは憲政党が解散して、その一部が立憲政友会に入ったという解釈で大丈夫なのでしょうか?
また、自由党死すと書いてあるのですが、そもそも憲政党は旧自由党なのではないのでしょうか?
そこら辺の政党の成り立ちというか生い立ちについて、どなたか説明頂けると幸いです。
よろしくお願いします🙇‍♀️

※ (1.邊能殿表 ) が政党の結成を目指し始めた ! る政党の力も無視できない!?> ぐ (16.、 生中をの ) の誕生 [1900] ーーー (10.多必史。。 ) が解党して合流した 【総裁】(1. 和仁電人X ) Ja 【批判】 幸徳秋水が『万朝報』に「自由党を祭る文」を発表

回答

✨ ベストアンサー ✨

憲政党の沿革は複雑なので整理しておきましょう。

もともと憲政党は自由党と進歩党が合体したものでした。この両者はかつての政敵でしたが、第3次伊藤内閣の地租増徴案を阻止するために結託したわけです。
しかし元々敵だったこともあって、憲政党内で、旧自由党系と旧進歩党系の対立が起こりました。結局、旧自由党系の星亨が根回しをして、憲政党は解党します。
この際憲政党は、旧自由党系の憲政党(同じ名前なので混乱しないよう注意です)と、旧進歩党系の憲政本党に分裂します。

ここで、伊藤博文としても、政党の勢力は無視できない、という認識がありました。選挙権が緩和され、参政権が拡大したからです。そこで伊藤は自ら正当結成に乗り出し、憲政党と手を組むことにします。立憲政友会の誕生です。憲政党はここで解党しましたので、一部が立憲政友会下に組み込まれたわけではありません。

ご指摘の通り、憲政党は旧自由党系です。
「自由党死す」というのは、幸徳秋水が『萬朝報』に寄稿した「自由党を祭る文」の一説ですね。
立憲政友会の成立によって、「自由党」は、かつての政敵であり、藩閥でもあった伊藤博文と手を組んでしまったわけです。
そのことを「自由党死す」と表現したんですね。

にゃふ

とても分かりやすい解説有難うございます……!
諸々の関係を理解することが出来ました。
感謝致します……

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