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憲政党の沿革は複雑なので整理しておきましょう。
もともと憲政党は自由党と進歩党が合体したものでした。この両者はかつての政敵でしたが、第3次伊藤内閣の地租増徴案を阻止するために結託したわけです。
しかし元々敵だったこともあって、憲政党内で、旧自由党系と旧進歩党系の対立が起こりました。結局、旧自由党系の星亨が根回しをして、憲政党は解党します。
この際憲政党は、旧自由党系の憲政党(同じ名前なので混乱しないよう注意です)と、旧進歩党系の憲政本党に分裂します。
ここで、伊藤博文としても、政党の勢力は無視できない、という認識がありました。選挙権が緩和され、参政権が拡大したからです。そこで伊藤は自ら正当結成に乗り出し、憲政党と手を組むことにします。立憲政友会の誕生です。憲政党はここで解党しましたので、一部が立憲政友会下に組み込まれたわけではありません。
ご指摘の通り、憲政党は旧自由党系です。
「自由党死す」というのは、幸徳秋水が『萬朝報』に寄稿した「自由党を祭る文」の一説ですね。
立憲政友会の成立によって、「自由党」は、かつての政敵であり、藩閥でもあった伊藤博文と手を組んでしまったわけです。
そのことを「自由党死す」と表現したんですね。
とても分かりやすい解説有難うございます……!
諸々の関係を理解することが出来ました。
感謝致します……