元々の話が長いので、どこを勉強したいのかわかりませんが、全て書き起こしたので参考にしてください(^ ^)
呉の国の王であった闔廬は越に攻め入った際に死んでしまいました。
闔廬の子の夫差が王に即位、闔廬の才能ある忠臣の子胥はそのまま夫差に仕えるようになりました。
夫差は父の仇を討とうと決意し、寝床に薪をしいてその上に寝て体を痛めつけ、部屋に入ってきたものには「お前は越が父親を殺したことを忘れたのか?」と質問するように頼み、憎しみが弱くならないようにしていました。
そして、、、遂に夫差は越を夫椒(地名)で撃破します。越王の勾践は会稽山に落ち延び、
「呉の家臣となり、自分の妻は夫差の愛人として捧げるので許してほしい」と交渉しようとしましたが夫差は「それはできない。」と断り、攻め続けました。
窮地に陥った勾践は、子胥に匹敵する力を持つ夫差の部下の1人、伯嚭にアプローチをします。賄賂を受けた伯嚭は、夫差を説得して越を許させてしまいました。
越王・勾践は国に戻りましたが、呉への憎しみは無くなりません。寝床に胆をぶら下げて、仰いでこの胆をなめては 「お前は、会稽で受けた屈辱を忘れたのか。」と口にし続け恨みを忘れないようにしました。国の政治は家来の文種にまかせて、自分は将軍の范蠡と一緒に軍拡をして呉を倒すことだけを考えたのです。
そして、、、
賄賂で裏切っている伯嚭は「子胥が自分の策を用いられなくなって面白くなく、呉に恨みを持っています。」と夫差に告げます。これを聞いた夫差は、子胥に属鏤の剣を贈りました。(裁判で罰を与えたり、家族を傷つけたりはしないから、罪が明るみになる前に自殺しろと言う意味。)
剣を受け取った子胥は、家族にこう言いました。
「必ず私の墓にひさぎを植えなさい。ひさぎは夫差の棺桶の材料になるだろう。そして私の目をえぐって、東門にかけておきなさい。越の兵が呉を滅ぼすのを見るために。」(子胥は策略に気づきましたが、どうしようもありません。)
子胥は剣で自分の首を切りました。これを聞いた夫差は、子胥の遺体を馬で作った袋にいれて、これを川に流してしまいました。葬儀すらしなかったのです。
呉の人々はこれを憐れんで祠を川のほとりにたてて、この祠を胥山と名付けた、、、と言うのはまた別のお話。
さて、越は10年もの年月の間に軍隊を強くしました。そうして越は呉を攻めました。呉は戦うたびに敗走。夫差は姑蘇という地に逃げ、和平交渉を越に願いでました。しかし越の将軍・范蠡はもちろん受け入れませんでした。
夫差は「子胥に合わせる顔がない」と言って死者の顔を覆う布を作って、これをかぶって自殺したということです。