基本的に豊臣秀吉が行った太閤検地はその土地の善し悪しを調べその年の米の収穫量を予想してどれくらいの税金(年貢米)が手に入るかを[石高]という単位で表した。と定義されています。だから検地帳は各地方の土地の善し悪しを記録し、見返せるように(後世に残す。とは考えたかも知れませんが可能性は低いですね。)するために書いたのではないでしょうか?何を記録したかというと先程も言ったように収穫量の予想を書き残したり農民にアドバイスするために土の質等を記録して各地方の大名に知らせていたかもしれません。(次の年の収穫量をあげる事は年貢米を徴収する大名にとっても良い事なのです。)ざっくりいえばこんな感じです。分からなかったらまた聞いてください♬
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