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恭仁京に遷都 (740年)
「藤原広嗣の乱」が起こり、政情が不安定になった。
奈良の藤原氏の勢力を避ける意図があったとも言われる(藤原四兄弟が病死して混乱)。
新しい政治拠点としての立て直しを図ろうとした。
難波宮 へ(744年)
瀬戸内海への交通の便が良く、外交・貿易にも便利。
地方との連絡を重視した政治的狙いがあったと考えられる。
また、恭仁京の整備が思ったように進まず、再び移ることにした。
紫香楽宮へ (744年末 )
聖武天皇が信仰に傾き、「仏教によって国を救いたい」と考えていた→ この頃から国家仏教・大仏造立の構想が始まっていた。
紫香楽は山中の霊地で、仏教的な理想の都を目指していた。
しかし…
山火事・地震などの災害が多発。
造営の困難さもあり、断念。
平城京(戻る) 745年
結局、政治的にも宗教的にも整備された基盤が整っていたのは平城京。
災害の多かった紫香楽宮を放棄。
そして、平城京で、ついにあの東大寺大仏(盧舎那仏)造立を本格化させていく🙇
ありがとうございます🙇🏻🙇🏻♂️🙇🏻♀️