日本史
高校生
解決済み

長州藩外国船砲撃事件ら辺をまとめてみたのですが、違う部分があればご指摘お願いします。

島津久光が去った後の京都で、長州藩が尊皇攘夷運動を活発化させようとする。

朝廷を仲間にするため、公卿である三条実美ら朝廷を仲間にし、家茂の許しにより、攘夷運動(外国船砲撃事件)を開始。

幕府から天皇にお返しするため、代官所を襲う。(天誅組の変)

それを危険だと判断した朝廷は、長州藩勢力を追放しようと、八月十八日の政変をおこす。

同じ理由で生野の変がおこる。

池田屋事件(京都を放火しようとした長州・土佐の浪士を襲撃)がきっかけで禁門の変がおこる。

朝廷から長州藩は敵とみなされる。

回答

✨ ベストアンサー ✨

ちょっとだけ訂正させてください。

1862年ごろから、長州藩は公家・三条実美らに資金援助し、繋がりを強くする
→京への影響力を強めるため

1862年
孝明天皇が「攘夷の勅書」を出す
✳︎孝明天皇は、大の外国嫌いだから

将軍・家茂は、攘夷を決行すると約束する
→天皇に逆らえないから
→ただし、外国と戦争する気はなく、諸外国と通商条約の破棄についての交渉をするつもりだった
→幕府は、諸藩に海防の強化を命じる

1863年
長州藩は外国船を砲撃して、攘夷を開始
→幕府の「海防の強化」を拡大解釈

攘夷の先駆けとして、五條代官所が襲撃される(天誅組の変)

翌日、八月十八日の政変で、長州藩は京都を追放される
→強行な手段をとる長州を危険視したため

攘夷の一環として、生野の変が起きる

1864年
京都放火などを企んでいた志士たちが新選組に襲撃される(池田屋事件)

池田屋事件がきっかけで長州が兵をあげ、禁門の変(蛤御門の変)がおきる

蛤御門は御所の門=長州は天皇に弓をひいた!
→長州は「朝敵」とされる

...という感じです。
島津久光は、1862年から上京したり帰京したりを繰り返してますから、久光が京を去った後の京都で〜という感じではないと思います。

しょう

本当にいつもありがとうございます!!😭
助かります!

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