質問
大学生・専門学校生・社会人

急ぎです。近世におけるイギリスの子どもと労働の実態、そして、改善の方法について教科書の説明をよみ、まとめよう。誰か教えてください。

(2) 資本主義の成立と児童問題の発生 新たな貧困問題に対して, 労働に就いていないものを強制的に労働させるこ とで問題解決を図り, 1349年に英国労働者条例が出された。これは「労働可能 で60歳以内の自活の手段のない人はすべて, 男でも女でも命ぜられた仕事に法 定賃金で従事すべきこと 命ぜられた仕事を拒否する者は投獄される」ことを 規定していた。そして、労働不能,虚弱な貧民への考慮もなく、抜本的な貧困 問題の解決をめざしたものとはなっていない。も (1) (2) (3) 産業革命後, それまで糧を得ていた農地などが牧羊地に転換され, 労働と生 活の基盤を失う者が大量に現れ,都市に流入していった。 絶対王政による中央 集権国家の安定をめざし, 社会秩序の混乱の解決策として, 立法措置を講じ, 国家施策として貧困問題に対処するために, 救貧法を規定していくこととなっ た。 イギリスで問題となっていた乞食, 浮浪者の問題を解消する目的で, 1530 年「乞食および浮浪者の処罰に関する法律」が出され翌年施行された。 働くこ とができない貧民は法の規定のもとに乞食を認め,働くことができるものの 食は禁止し,強制的に故郷に返して仕事に就くべきとし, 労働可能なものの乞 食や浮浪を罰するとした。 しかし、問題の解消とはならず, 1536年「強壮な浮 浪者と乞食の処罰のための法律」が出された。 救貧法の起源とみなされている 法令である。この法令は浮浪乞食, 施与の禁止とより強固な方策をつくり, 貧 民を都市から帰還させようとしていた。 児童に対しても「怠惰な生活をしたり 乞食をしたりするような状態にある5歳以上14歳以下の児童は都市や町の役人 によって農業やそのほかの手仕事ないし労働に徒弟に出される」 べきと規定し ていた。 乞食や物貰いが禁止され,都市から追い払われた。強健な労働者でも 職業を必ず見出しうるとは限らないということを認め,仕事を提供する責任を 教区に課すものであった。 (4) その後も、徒弟就労の強制として労働義務の強調と労働条件の規制が進めら れ,エリザベス女王Ⅰ世統治のもと、1601年の救貧法(「貧困者の救済のための 法律」)が出された。これは,中央集権的な機構の確立によって貧民の管理を 徹底するものであり,これまでの施策の集大成として再編統合されたものであ る。救貧法は,貧困者の救済のための法律として、中央集権的な機構の確立に よって貧民の管理を徹底した。 この中では、対象による分類処遇がなされ,有 (5)
第2章 児童家庭福祉の歴史的展開 能貧民 (働くことができる貧民), 無能力貧民 (働くことができない貧民),児童で 分けられた。 有能貧民には労働が強制された。 労働を拒否する者は罰せられた。 無能力貧民には救済が与えられた。児童は原則として教区徒弟となる徒弟制度 が利用された。 教区徒弟のみならず、労働している子どもの状況は、不衛生な環境下で長時 間の労働を強いられるなど悲惨な状態であった。教区徒弟最大の雇用者の一人 でもあったピール(R. Peel)ら人道主義的な立場からの提案,努力などから、 1802年「教区徒弟の健康と徳性を保護するための法律」が制定された。作業環 境の規制,労働条件の規制,教育条項,実施規定等の内容を含むものであった。 救貧法下の労働の改善を意図しており,最初の工場法といわれている。 その後、教区徒弟以外の児童も多くが工場労働に従事する状態になっていた。 いわゆる法の制約を受けない救貧家庭の「自由な児童」である。家族を養うた めの賃金労働に就いていたが,労働に就く児童の状況は劣悪で,多くの死も あった。このような状況の中で, 1819年「綿工場の規制とそこに雇用される年 少者の健康の一層の保護の為の法律」,1833年「連合王国の工場の児童・年少 者の労働を規制する法律」など,児童の労働を規制する動きがみられた。 しかし、低い賃金の工場労働,農村の労働者の窮民化などの問題は解消され なかった。そして, マルサス (T.R. Malthus) の 「人口論」をはじめ、救貧法 による救済は依存をする貧民を増やしているなど,救貧法反対の立場の主張が なされた。そして,王立委員会による救貧法運用の調査,検討がなされ,救貧 法改正に際し,多くの乱用が発見されたことなどから、より厳しい救貧の規制 の内容であるべきとなり, 1834年に新救貧法が出された。この特徴は ① 均一処 遇の原則:全国統一的な救貧行政, ② 劣等処遇の原則:救済は労働者の最低水 準以下の設定,③ 労役場制度: 労働可能な貧民の在宅救済を禁止、の3つの内 容であった。より厳しくなった貧民の救済に,児童労働の規制も進まず,困窮 児童の保護や救済については民間の慈善, 救済などによることとなった。 (6) 民間による救済として著名なものは、資産家のバーナード (T. J. Barnardo) によって, 1870年にバーナード・ホームがロンドンに設立された。 1876年には 13の小舎からなるヴィレジ・ホームが設立された。 バーナードが死去する1905 年まで, 約6万人の貧窮児童の保護が行われたといわれている。 (7) 1838年救貧法委員会では, 労役場が受救貧民を減少させるどころかその再生 産の場になっている問題が指摘され, 児童へ読み書き, キリスト教教育や勤勉, 25
徳行の習慣を身に付けさせるように訓練が必要という検討の結果により、のち に児童は分類収容されることとなった。 しかし、現実的に対応は不十分で、不 衛生な状況も改善されるに至っていなかった。 1880年代には,ブース (C. Booth) がロンドン市民の生活実態調査 「ロンド ン市民の生活と労働」でロンドン市民の30.7%が貧困に苦しんでいることを明 らかにした。ラウントリー (B. S. Rowntree)はヨーク市調査などで,イギリス の都会人口のおよそ3分の1は貧困状態にあり、それは低賃金,多子,賃金稼 得者の置かれる状況が主な原因であり,貧困を資本主義的な社会問題として提 示した。個々の労働者の無能力や不節制,怠惰の結果ではないということを明 らかにしたのである。 特に, 児童の貧困については,14歳以下の児童の3分の 1から2分の1が貧困線以下の生活を送っているということから,懲罰的・社 会防衛的・隔離的な処遇内容を改革し, 劣等処遇の原則から近代的人権意識に よる救済への転換が求められていくこととなった。 児童虐待防止の運動から 1883年にリバプール児童虐待防止協会がアグニュー (T. F. Agnew) らによって 設立された。その後1889年に全国児童虐待防止協会 (NSPCC) 設立, 同年児 童虐待防止法が制定された。 そして,第二次世界大戦以降のベヴァリッジ報告を踏まえた社会保障体制に 進んでいく。 ベヴァリッジ報告は第二次世界大戦中に政府から諮問を受けたべ ヴァリッジ(W.H. Beveridge) がイギリスの社会保険や関連サービスについて 立てた改革プランである。 社会保険にとどまらず,戦後の国家復興に向けた包 括的なプランに基づいている。 戦後の国家の再建を阻む課題として、窮乏,疾 病,無知,不潔, 怠惰 (無為・失業) ということを「五つの巨人」にたとえて それに対応する所得保障, 包括的な保障およびリハビリテーションサービス, 教育,住宅供給、雇用の維持政策を包括的に展開する必要性を示した。資本主 義社会における福祉国家システムのモデルとして, イギリスのみならず多くの 国に影響を与えたと評価されている。 児童に対する保護に関わることでは,一般家庭、産業の場での虐待が引き続 き起こっていた。
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