歴史
中学生
解決済み

倒幕派や民衆など、当時の複数の立場から江戸幕府が滅亡した理由を書く、という課題が出たので教えてほしいです。

回答

✨ ベストアンサー ✨

ざっと、こんな感じでしょうかね。

①倒幕派の根底は、主に関ヶ原合戦の復習戦です。
江戸幕府との権力闘争に負ければ、お取り潰しもあるので、こっちは必死です。
長州藩は西軍として敗北。領地が大幅に減る。
薩摩藩も、西軍で敗北しているが、ちょっと内容は複雑。
西軍に属するが、そもそも領内でのお家騒動で、関ヶ原どころでなく兵数も少なかった。それで、西軍では主力にならなかった。
敗戦と言っても、敵陣突破で逃げ切ったし、本国に主力温存できた。九州の全土には島津に対してトラウマがあって、九州の大名が家康に許してやってくれと陳情多数。で、領地は安堵させたが、外様として徳川に目をつけられた状態。
しかし、徳川から姫をもらった事があるので、ある程度は優遇もされていた。だから、篤姫が徳川に嫁ぐ話になっていく。
だから、当初は、幕府内での発言力拡大をしようと動いていたが、後に、討幕となる。
土佐藩は、ちょっと複雑。大名は、東軍(家康側の外様)だが、地元の武士は、関ヶ原で敗戦した長宗我部の武士団。
だから、藩内の上位は佐幕派で、下位は討幕派。藩内の強烈な武士階級の身分差別で、そうなった。

②庶民は、倒幕も尊皇攘夷もどうでも良い。ただ、鎖国が長く、海外と日本国内で、金と銀の交換レートがズレてしまっていて、海外と貿易をしだしたときに、その差益を外国人商人に狙われて、物価が上がって、生活が苦しくなる。
経済の混乱から、幕府に対して風当たりはつよくなるって感じかな。でも、庶民は反乱とかで無く、えじゃないか運動とかで、武士の倒幕運動ほど過激じゃない。

③西日本の大名に倒幕派は多い。東北など、東日本の大名は、討幕派は少ない(どちらかというと佐幕派?)。長岡藩は、中立という立場を考えたが、倒幕派(薩長)からどちらかはっきりしろと迫られ、結果的に、倒幕派と戦うことになった。

④佐幕派は一枚岩ではない。
本来、幕府側で働くはずの、旗本なども、お家を守る事を考え、情勢を見て、有利な方に鞍替えする者もいた。
御三家の尾張藩は、倒幕側について、江戸への進軍の邪魔をしていない。
倒幕派は、官軍という大義を得ているので、賊軍の汚名を受ける事を恐れた。
ま、倒幕派に勝って、京都を占領出来れば、占領した側が官軍になるのだけど、当時の佐幕派では、装備ややる気や連携の問題で、それは難しかった。
(長州藩は、禁門の変で、それをしようとしたが、薩摩や会津に負けて、賊軍としてあつかわれた。もし、長州が勝っていたら、長州がその時点で、官軍になれた。)

幕末 明治維新 倒幕
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