日本史
高校生
解決済み

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、石田三成方についた西軍の大名を処分し、翌年には大坂城代を設置し、西国や朝廷の動向を監視させた。
これは誤文なのですが、誤っているところは"翌年"のところですよね?できれば、それがいつのことか教えていただきたいです🙇‍♂️

回答

✨ ベストアンサー ✨

天正11年 1583年

(間違ってたらすみません💦)

くう

ほんとに毎回助かります。
ありがとうございます🙇‍♂️🙇‍♂️

喜重郎

1583年というのは、秀吉が大坂城を築き始めた年で、この問題を考えるときの根拠にはなりません。この問題は、関ケ原の戦いの性格を聞いている問題だと思います。関ケ原の戦いは、豊臣政権内部の主導権争いで、これに勝利した家康は優位な立場には立ちますが、この段階ではあくまでも主人は大坂城にいる豊臣秀頼で、家康は秀頼を支える五大老の筆頭です。ですから、関ケ原の戦いに勝利したからといって、自分の主人の城に城代をおくなどということはできません。だから誤文であると考えます。

くう

なるほど!
理解が深まりました。ありがとうございます🙇‍♂️

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