「これも仁和寺の法師」についてです
足鼎に頭を入れて抜けなくなったのは 仁和寺の法師ですか?
それとも宴会にいた他の法師ですか?
「現代語訳」
これも仁和寺の法師(の話)、子どもが法師になろうとする別れということで、それぞれが音楽や詩歌、舞などを楽しんだたことがあったのだが、酔って面白がるあまり、側にある足鼎をとって、頭にかぶったところ、つかえるように感じたのに、鼻を押して平らにして、顔を(足鼎の中に)差し入れて舞い出たところ、その場にいる者全員が面白がることこの上ない。
しばらく舞を舞ったのちに、(頭にかぶっていた足鼎を)抜こうとすると、まったく抜くことができない。宴も興ざめして、どうしたらよいだろうかとうろたえました。(抜こうと)あれこれとすると、首の周りは傷ついて、血が垂れ、ひたすら腫れに腫れ、息も詰まってきたので、(足鼎を)たたき割ろうとするのだが、簡単には割れない。(足鼎をたたいたときの音が頭に)響いて我慢できなかったので、(打ち割ることが)できず、手の施しようがないので、(足鼎の)3つの足の上に帷子をかけて、手を引き杖をつかせて、都の医者のもとに、連れて行った道中ずっと、人が不思議に見ることこの上ない。
医者の所(家の中)に入って、(医者に)向かって座っていたであろう有様は、さぞかし風変わりであっただろう。ものを言うにも、(足鼎の)内にこもってはっきりしない声に響くので(周りの人には)聞こえない。
「このようなことは書物にも見られないし、受け継いでいる教えもない。」
と(医者が)言うので、(法師たちは)また仁和寺に帰って、近親の者、老いた母親らが、枕元に集まり座って泣き悲しむものの、(本人は)聞いているだろうとも思えない。こうしているうちにある者が言うことには、
「例え耳や鼻が切れてなくなるとしても、命だけはどうして助からないことがあろうか、いや助かるだろう。ひたすら力を精一杯(入れて)引っぱりなさい。」
わらの芯を(首)周りにさし入れて、足鼎と(首と)の間を離して、首もちぎれてしまうぐらい引っ張ったところ、耳や鼻は欠けて穴が開いたものの(足鼎は頭から)抜けたのだった。危うい命を拾って、長い間患い続けていたのである。
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