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百姓一揆 打ちこわし 土一揆 山城国一揆 一向一揆 それぞれ説明求めます!

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百姓一揆は18世紀に農村で、多くの村が団結し、領主に年貢の軽減や不正を行う代官の交代を要求した一揆です。
打ちこわしは百姓一揆と同じ頃に起こった一揆で、米を買いしめた商人に対して、起こった一揆です。打ちこわしは都市で起こったものです。
土一揆は15世紀に土倉や酒屋などをおそって借金の帳消しなどを求めた一揆です。
山城国一揆は山城(京都府)南部で、武士と農民が一体となって守護大名を追い払おうとした一揆です。
一向一揆は浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた武士や農民が起こした一揆です。

ありす

丁寧にありがとうございます。

サクラ

こちらこそ、ベストアンサーありがとうございます。

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百姓一揆(©︎ウィキまとめ)
江戸時代, 百姓らが集団を形成して起す反領主闘争。1590(天正18)から1877(明治10)の間で3700件余発生。百姓経営の成立なりたち・相続を求め,それを阻害する諸施策,具体的には年貢重課・諸課役負担・専売制などの排除を求め,領主に非合法的に訴願するもの。闘争形態としては 強訴ごうそ・ 逃散ちょうさん・ 打ちこわし・ 越訴おっそなどがある。初期には検地・兵農分離政策により特権を否定された土豪的百姓が,配下の小百姓等を指揮し,領主との間で武装闘争を展開する 土豪一揆が頻発したが, 島原の乱を最後にこの形態は終焉する。17世紀中葉には,領主の政策や村役人の非違に抵抗するために,百姓が非合法集団を形成する動きが顕著に見られるようになり,幕府・諸藩はそれを 徒党ととうとして禁止した。この時期には,村役人が領民を代表して越訴したとされる 代表越訴型の一揆物語が伝えられているが,史料的には確認できないものが多い。17世紀末から領内の広範な人々が城下等へ強訴したり,他領へ逃散する 惣百姓一揆・全藩強訴が展開し,1749‐50(寛延2‐3)には最初のピークが形成される。その後18世紀後半には一揆の規模が拡大し,村役人や豪商・豪農に対する打ちこわしも数を増し,激しくなる。また藩領域を越えて一揆が展開する 広域闘争も1764(明和1)の 伝馬騒動を最初の事例として出現する。 天明の飢饉ききん時には都市の打ちこわしとともに全国各地で一揆が発生した。これに対し幕府は 徒党禁令を整備して弾圧体制を強化した。1830年代の 天保の飢饉期には,天明期以上に大規模な一揆が続いた。とくに 甲州騒動や 加茂一揆のような広域闘争が連続的に展開。40年代の天保改革期には,近江検地反対一揆( 三上山一揆)や 三方領知替反対一揆など幕府の政策に反対する一揆が頻発し,改革政治に打撃を与えた。開港の経済変動は農村の階層分化を促進し,没落した貧農・半プロレタリアートが 世直しを求め豪農・豪商を打ちこわす 世直し一揆の増大を招く。とくに66(慶応2)と68‐69(明治1‐2)は世直し一揆が集中的に発生し,一揆の最大ピークを構成する。維新政府が矢継ぎ早に新政策を発表すると,この新政に反対する 地租改正反対一揆や 血税一揆等が各地で出現した。これらの一揆は政府に対する強い拒否の姿勢を示し,竹槍で武装した一揆は,官吏を殺害する等の激しい行動を展開した。

打ちこわし(©︎ウィキペディア)

打ちこわし(うちこわし)とは、江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。[1]主に都市部において、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。

都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703年)に長崎で発生し、享保18年(1733年)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。

土一揆(©︎ウィキペディア)

室町中期ごろ、商品経済の発達や農業生産の向上、惣結合の強化などに伴う社会情勢の変化により、まず当時の先進地域だった畿内において、民衆が連帯組織=一揆を形成して、支配者(幕府や守護など)へ政治的な要求を行うようになった。これを土一揆という。この頃には、惣村の形成に見られるように、百姓らの自治・連帯意識が非常に高まっており、そうした流れの中で、百姓や地侍、馬借らが広域的に連合する土一揆が発生したと考えられている。

土一揆のほとんどは、徳政の実施を要求した。そのため、土一揆を徳政一揆ということもある。当時、動産・不動産の所有権は、売買などが行われたとしても、本来は元の所有者が保持しているのがあるべき姿だとする観念が存在しており、あるべき姿=元の所有者へ所有権を戻すことこそ、正しい政治=徳政であるという思想が広く浸透していた。百姓らにとって、そうした徳政を要求することは、当然の権利と認識されており、経済的な困窮が土一揆の主要因だったとは言えない。天皇や将軍の代替わり時には、徳政を行うべき機会として、土一揆が発生することが多かった。次第に土一揆は頻発していき、毎年のように見られるようになった。

こうした土一揆の頻発は、幕府権力の弱体化をもたらしていったが、幕府の対応は鈍く更に実際に鎮圧にあたった守護大名配下の武士の中にも長年の京都滞在に伴う生活逼迫から似たような状況下に置かれた農民達に同情的な者も多く一揆側に寝返る者が現れる始末で、幕府が度々諸大名に配下の徹底管理を命じている。また、応仁の乱直前には都に集結した兵士によって土倉などが荒らされて「私徳政」と称した事件も発生している。室町幕府は本来、土倉から土倉役、酒屋から酒屋役を徴収していたが、徳政令を発布すると、土倉が収益を失うために土倉役を免除しなければならない規定があり、当初は「徳政禁止」の命令も出した。だが、一揆はますます増加するようになり、果ては幕府自体が財政難を救うためにあえて一揆を黙認して「分一徳政令」(紛争となった債権額の一割を幕府に納付した紛争当事者が自由に処理できるとした徳政令)を出すに至ったのである。このため、土倉や寺院と言った一揆の標的となりそうな者達は自ら自衛のための兵士を雇ってこれを防ぐ他なかった。

山城国一揆(©︎ウィキペディア)

山城国一揆の成立 編集
応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。南山城でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。本来、山城には名目上の守護しか置かれていなかったものの、文明10年(1478年)の畠山政長の任命後は本格的な領国化を目指す動きが盛んになっていた。その中で繰り広げられた両畠山氏の長年にわたる戦いで国人衆や農民は疲弊し、山城国一揆の土壌が整った。

文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法(くにじゆうおきて)」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。

幕府との関係 編集
当時の室町幕府では、応仁の乱とその後の混乱で失われた幕府の経済的基盤の再建に、お膝元である山城国の御料国化を進めていたため、同国が有力守護の支配下に入る事を望んでいなかった。このため、管領細川政元らは一揆に対して静観の姿勢を取った。また、「三十六人衆」の中には一揆以前より畠山氏と対抗する形で細川氏との被官関係を結んでいる者が含まれていたと言われている。

文明18年5月26日(1486年6月27日)には、幕府政所執事伊勢貞宗の嫡男貞陸(後に執事職を継承)が守護に補任された。幕府及び伊勢氏は一揆側に一定の政治権限(検断権・半済権など)を認める一方、畠山氏が持っていた守護請の権限を継承した。また、必要に応じて守護役の徴収を国人達に求め、一揆側がこれに応じる場合もあった(『大乗院寺社雑事記』長享元年6月22日条・明応2年2月5日条)。当時の室町幕府は長享・延徳の乱や畠山基家討伐に見られるような兵力を動員できるだけの軍事力を依然として持っていたものの、幕府の本拠地である京都の目の前で発生した山城国一揆を鎮圧する姿勢を示さなかった。これは国人達が室町幕府や守護領国制自体を否定するために一揆を起こしたものではなく、両者の利害が直ちに対立するものではなかったからと考えられている。

山城国一揆の崩壊
国人衆による政治は、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、惣国は崩壊の兆しを見せ始めた。特に明応の政変による幕府内部の混乱は幕府有力者達による山城国人衆への切り崩し工作となって現れた。これまでは半ば名目上の守護であった伊勢貞陸は京都から追放された前将軍足利義材の支持者の京都侵攻に対抗することを名目に山城全域の一円知行化を目指すようになり、国内の寺社本所領の接収を進めた(『後法興院記』明応2年閏4月27日条)。更に貞陸が大和の有力者で畠山基家の被官でもあった古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に任じて支援を仰いだことで、伊勢・古市の支配を認めて従来の地位を維持しようとする国人達と「他国者」の古市の侵入を認めず細川氏などと結んでこれを排除しようとする国人の動きに分かれた。

明応2年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲屋妻城に立てこもって抵抗する。だが、義材追放の中心人物であった細川政元は、義材方勢力の反抗に対抗するという伊勢氏の主張を拒むことが出来ず、表だって一揆側を支援することが出来なかった。また、政元や畠山基家は古市澄胤に兵の引き上げを命じたが、守護伊勢貞陸の支援を受けていた古市はこれを拒否して国人衆の抵抗の鎮圧にあたった(『大乗院寺社雑事記』明応2年12月9日条)。翌年11月には古市軍によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結を見ることとなった。

以後山城は伊勢氏の統治下に置かれたが、鎮圧から翌年の明応3年(1494年)に畠山氏の家臣が勝手に南山城に侵入、翌年にも同様の事件が発生、明応5年(1496年)に政元の家臣赤沢朝経が畠山氏の家臣を追い払うまで南山城に居座った。相次ぐ事態に伊勢氏は単独で対処出来ず山城での権力を低下させ、反対に政元の影響力が増していった。翌明応6年(1497年)に足利義材の支持者の畠山尚順が挙兵、危機的状況に対処するため、10月に政元の家臣香西元長を下郡守護代に就任させ、伊勢貞陸は守護職を保持するという変則的な人事が行われた。この決定は伊勢氏と細川氏の妥協であり、以後香西元長は山城で権勢を振るうようになっていった。

一向一揆(©︎ウィキペディア)

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一向一揆

三河一向一揆

六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵
一向一揆(いっこういっき)は、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗[1])の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。

浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。

1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。朝倉氏に奪われた越前吉崎御坊を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川の戦い)、一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。

しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。

ウィキペディアからコピーしたので、一部乱れが、、、

ぽん

上記説明に誤りがありました。
すみません。
誤 ©︎ウィキまとめ
誤 ©︎Wikipedia

正®️ウィキまとめ
正®️Wikipedia

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