回答

1.御恩と奉公のしくみ

御恩:①先祖代々の土地の所有を認める
②幕府のために働けば新しく土地をあげる
    ↓ ↑
奉公:①幕府のために戦う

※与える土地があって初めて成り立つ

2.元寇(蒙古襲来)

結果:2度の防衛に成功
成果:無し、再来に備えて警備強化

※あくまで元から日本を「守った」戦いに過ぎないため、新しく得た土地は無し
→武士たちに与える土地もない!!

3.追い詰められる武士

これまでの奉公
①借金して武器や馬を揃える(土地が担保)
②もらった土地を使えばもうけが出る

元寇
①借金して武器や馬を揃える
②新しく土地をもらえないため借金が返せない!

4.まとめ

御恩と奉公は両方の役割を果たして初めて成り立つのに、元寇のせいで奉公の代償が払えなくなってしまった。そして、幕府と武士たちの関係が悪くなり滅亡に至った。

わかりづらい部分があれば教えてください。
応援してます📣

ボルサリーノ

追記:※や!の部分が大事なところです

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御家人たちは元寇(蒙古襲来?)の際に費用を自腹で工面し命がけで戦ったが、幕府からの十分な恩賞が得られなかったために不満が高まり、御恩と奉公の関係が揺らいだから。また、それに伴って御家人たちの生活が困窮したが、それを救うこともできなかったから。

でどうでしょうか??

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鎌倉幕府では御恩と奉公の関係で成り立っていた。
(御家人は幕府のために戦い、幕府は褒美として土地をあげていた。)
①しかし、元寇[文永の役(1274)、弘安の役(1281)]で、あげる土地がなくなってしまう。(*_*)ヤベェ
→『せっかく戦ったのに褒美がないなんて😡』と幕府に反感が高まる。

②さらに、『またモンゴルが襲ってくるかも…。\=͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)/ 』ということで北条氏に権力が集中。
→→御家人の反感を買うとこに…。

①と②をどうにかしたい。( ˘•ω•˘ ).。oஇ
『そうだ💡朝廷(天皇)中心に戻せばいい! 』
と立ち上がったのが後醍醐天皇。
そして楠木正成や足利尊氏を味方につけて、1333に幕府を滅ぼす。

これをまとめるといい!
例…元寇の際に御恩と奉公の関係が崩れ、また、北条氏に権力が集中したことで、幕府の反感を買ったから。(文書ぐちゃぐちゃですが…。)

この例は参考にならないかもなんで上の流れを理解して、自分でまとめて下さい。

函館駅前

横やり失礼します。
これに+して永仁の徳政令の話を加えたら尚良いですね。

鎌倉幕府が滅亡した要因は様々な理由があります。
1、元寇
→元が攻めてきた。防衛のために御家人を派遣する。
しかし、元を追い払ったにも関わらず、報酬がもらえなかった。
つまり、御恩と奉公の関係が成り立たなかった。
そこで、元寇などで苦しんでいる御家人を救うために永仁の徳政令を出しました。
→しかし、御家人の生活を改善できず、混乱を招いたため、かえって幕府の信用が失われた。
貸す方がお金を貸すのを渋る。
2、執権内の争い。
→霜月騒動といった出来事で内部争いが起こる。
3、分裂
→朝廷内の混乱
4、疫病や飢饉といった社会的混乱
これらが重なって滅亡したと考えられています。

函館駅前

つまり、まとめると今回問われていることは幕府と御家人の関係から説明しようってことから
上記の1をまとめたらいいと思います。

函館駅前

後、北条氏に権力集中は元寇以前からもそうだったのと
北条氏は他氏排斥などによって権力を高めていった。
つまり、ジャマ者は潰したという訳なので、北条氏に権力が集中したから滅んだというよりは、元寇後の内部分裂
詳しく言うと得宗専制体制の全盛などがひとつの要因と考えてもいいと思います。
横やり失礼しました。

ゆーと

僕の足りないところを補っていただきありがとうございます!まだまだ勉強不足でした。( ´>ω<)人

Dola

ちなみに、元寇であげる土地がなくなったのではなく、日本国内で、勝利を収めれば、負けた側が収めていた領土が手に入ります。しかし、元寇は向こうが遠征してきたので、勝っても土地を奪えない。これが成り立たなくなった原因ですね。ここから、借金帳消しなどいろいろ工夫しますが、武士への信頼度が下がっていくというてんかいです。こんな風につなげていきましょう。

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