歴史
中学生

教科書なくて、でも今すぐ知りたくて困ってます!!
行基ってだれですか?

回答

生没年
  天智天皇7年(668)~天平21年(749)
行基の出自
父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、百済系渡来氏族、母は河内国大鳥郡の蜂田首の出で、同じく百済系の渡来氏族。
続日本紀が伝える行基
 天平勝宝元年二月二日の条「大僧正の行基和尚が遷化した。和尚は薬師寺の僧である。俗姓は高志氏で和泉国の人であった。和尚は性質が純粋で、すぐれた生まれつきの才能をもち、人の手本となる徳風がはやくからあらわれていた。
 はじめ出家した時、瑜伽唯識論(瑜伽師地論と唯識論。仏教の聖典)を読んで即座にその意味を理解した。はやくから都や田舎をあまねく廻って、多くの人々を教化した。僧侶や俗人の多くの人々が、教化を慕ってつき従い、どうかすると千人単位で数える程であった。行く先々で和尚の来るのを聞くと、巷にいる人がなくなる程で、争い集ってきて礼拝した。行基はそれらの人々を才能に応じて指導し、すべて善に向かわせた。またみずから弟子たちを率いて、諸所の要害の地に橋を造り、場防を築いた。和尚の評判が伝わっている処の人々は、すべてやってきて仕事に協力したので、日ならずして完成した。人民は今に至るまでその利益を蒙っている。
 豊桜彦天皇(聖武)は、行基を大へん敬い重んじられた。詔をして大僧正の位を授け、供養のために四百人の出家をさせた。和尚は事ごとにふしぎな異変や霊験を多くあらわしたので、時の人は行基菩薩と号した。行基の滞在した処にはみな道場が建った。畿内にはそれが四十九カ所、他の諸道にも方々にあった。弟子たちは皆行基の残した仏法を守り、今に至るまで住持している。薨じた時、享年八十才であった。」
 ・・・宇治谷孟著 講談社学術文庫 全現代語訳 続日本紀(中)
略 伝
天智天皇7年(668)、河内国大鳥郡(現在の堺市)に生まれ、15歳で出家、道昭を師として法相宗に帰依する。
24歳の年、受戒。はじめ法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。
37歳の時、山を出て民間布教を始めたという。
和銅3年(710)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発した。行基はこれら逃亡民に救済の手をさしのべ、行基を敬う多くの者が集まり、行基の下で私度僧になった。
霊亀3年(717)4月23日、朝廷(元正天皇)より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のこと(輪廻説に基づく因果応報の説)を説き、徒党を組んで、よくないことを構え、・・・・家々をめぐり、いい加減なことを説き・・・・人民を惑わしている。・・・・今後このようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」とある(続日本紀)。
 こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続け、養老6年(722)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。
養老7年(723)、三世一身法に発布される。これは自発的な開墾を奨励するものであった。これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は、それぞれの土地の土豪や農民と利害が一致することとなり、急速に拡大発展し、その声望は急速に各地に高まっていく。
天平3年(731)、こうして拡大し続ける行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許し、天平12年(740)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった(続日本紀)。 これは朝廷が行基集団を弾圧することから、逆にその力を利用することを意図するものでもあった。
それを裏づけるように、これ以降、新京(恭仁京)造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
天平17年(745)正月21日、悲願の大仏建立実現のために行基の力を取り込むこともあったと思われるが、聖武天皇は紫香楽宮において、行基を大僧正に任じた(続日本紀)。なお、この大僧正という位はこの時には無かったのだが、言わば行基のために急遽設けたものであった。いかに聖武帝(あるいは橘諸兄)が行基の力を高く評価し認めていたかが解る。 しかし、このあおりを食らったのは玄昉であった。この時の僧正であった玄昉の地位は第二位に転落したのである。既に宮廷内における玄昉の権勢は陰りを見せていたが、これによりさらに弱まることとなっていくのである。
天平19年(747)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)
行基は天平21年(749)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、即ち天平21年(天平勝宝元年)2月2日の夜、菅原寺(喜光寺)東南院で遷化した(80歳)。釈迦涅槃の時と同じく右脇を下にして眠るが如く逝ったと伝わっている。
菅原寺(喜光寺)本堂

遺言により遺骸は弟子の景静達によって、大和国平群郡生馬山の東陵で火葬に付された。そして遺骨を容器に収め、その舎利容器に師・行基の伝記を刻み3月23日墓所(竹林寺)に埋葬する。(「舎利瓶記」)「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続日本紀)。
行基墓(竹林寺境内)

行基が社会事業を実践した理由
 行基は、下記の年表にあるとおり、地方から平城京へ貢納物を運ぶ運脚夫達の多くが行き倒れるのを救済するための布施屋と呼ばれる救護所・休憩所・宿泊所を各地の街道に設置、往来に難渋する川には架橋、干ばつに苦しむ農民のために溜池を造築するなど、所謂社会事業を何故に苦労を重ねて永年に渡り行ったのであろうか。この点について、解りやすく説明されている書物があったのでここで紹介したい。それは、岩波書店刊 歴史学研究会編 「日本史史料[1]古代」である。 ここに以下の通り解説されている。

 「7世紀半ばになると、それまで王権によって主導されてきた造寺・造仏は、地方豪族層に拡大し、(中略)各地に氏寺を造営していった。こうした仏教の普及の中で、僧たちの中には、衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の菩薩道を実践しようと、造道、造橋などの社会事業を行うものも登場してきた。道昭の社会事業もその一つである」

 ここでいう道昭は、日本における法相宗の祖であり行基の師である。行基もこの道昭が行った大乗仏教の菩薩道実践の一環として社会事業を展開したのである。なお、大乗仏教の菩薩道とは自利・利他行を成就して悟りに到る道をいい、利他行とは他者を救済する行いを意味するが、この利他行を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの菩薩道の実践そのものであった。

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