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日が没するか出づるかというのは、どうでもよくて「天子」が隋を怒らせたと言われています。聖徳太子は隋の朝貢国としてではなく、対等な帝国として外交しようとしたからです。
第2回遣隋使派遣の時に、小野妹子に聖徳太子が持たせた国書に、
『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが無きや...』
とありますが、なぜこのような相手をディスるような書き方をしたのでしょうか。
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日が没するか出づるかというのは、どうでもよくて「天子」が隋を怒らせたと言われています。聖徳太子は隋の朝貢国としてではなく、対等な帝国として外交しようとしたからです。
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