左の2つと右の2つの流れは別物です。厳密に言えば、複雑に絡み合ってるところもありますけど。一応、尊王攘夷→討幕の流れと公武合体→公義政体の流れがあります。
左の流れは、元々尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排除する)運動が起こっていた中で、開国の際の不平等な条約をきっかけに幕府に限界を感じた諸藩(水戸や長州など)が、より一層攘夷の点を強め、特に長州なんかは下関事件なんかに代表されるような外国排斥を行います。
一方で、公武合体派は図の説明にもあるように朝廷と幕府が結びついて、反幕府派の力を抑えてなんとか幕府の権威を保とうとします。こちらに加担したのが薩摩藩。攘夷派に対して八月十八日の政変や禁門の変(ここは自分で調べてください)などを通して、圧力をかけます。これらによって攘夷派と公武合体派の溝は深まります(特に長州と薩摩)。
ただ、公武合体派とは言っても、薩摩の中にも攘夷論を掲げる人はいます。それによって起こったのが次の事件。生麦事件。この事件をきっかけに薩摩が当時のイギリスと戦争(薩英戦争)をおっ始めるのですが、イギリスの強さに圧倒されてしまいます。
攘夷は無理と悟った薩摩藩は富国強兵か必要だと考えます。また、色々なことから諸藩連合による共和政治が大事だと考えるようになります。
同じ頃、長州も先の下関事件の報復から外国に襲われ、攘夷は無理だと悟ります。だが、このままでは日本は外国にいいようにやられてしまう。じゃあ、幕府を倒して、新しい政府を作って日本を強くしよう、ということになります。
そこからも色んな動きが各藩にもあるのですが、長州は元々公武合体派と対立していたために朝敵(朝廷の目の敵)です。本当は外国の銃を大量に買い、武力をもって幕府を倒したい。でも、大っぴらに外国から買えるわけでもない。
そこに坂本龍馬が現れます。薩摩は薩英戦争の後、イギリスと仲直りして銃を買っていました。その薩摩の銃を長州に運ぶことを画策したのです。
でも、長州と薩摩は仲が悪い。それもとんでもなく。それでも、なんとか手を結ばせる。それが薩長同盟。
この後も色々あった上で、薩長は天皇の勅命を出させてついに討幕に踏み切ろうとします。
しかし、一方で土佐藩が動いて公義政体論を掲げます。この頃にはもう弱り切っていて自分たちにも力がないとわかっていた幕府は、土佐藩の提案を受け入れ、大政奉還をします。この公義政体論の裏にも皮肉なことに坂本龍馬の力が働いていました(龍馬の考えとは異なる部分もありますが)。
この倒幕の勅命と大政奉還が同日だったために、大政奉還を行って幕府の実体がなくなったので、討幕派は武力による討幕を果たせないままとなります。
でも、討幕側も元々の目的は日本を変えるために幕府を倒して、新しい政権を作ることでした。公義政体論も形は違えど、同じような目的ではあります。
それでもうまくおさまれば良かったのですがら討幕派は公義政体論の中での、旧幕府(徳川)の存在に疑問を持ちました。幕府が倒れても、徳川がいて、各藩の上に立つのであれば、結局は同じことになるのではないか?それならば、徳川を排除すべきだと。
そこから諸々を受け、戊辰戦争に繋がっていきます。
間違ってるところもあるかもしれませんが...。
外様大名である薩摩藩が幕府で力を持った上で幕藩体制を再編するつもりだったようです。
尊皇攘夷は長州藩、水戸藩が中心でした。
15代将軍が水戸藩に近い慶喜になったことで、水戸藩は尊皇攘夷であるけれど倒幕派にはならなかった。
長州藩は尊皇攘夷を貫くあまり、
幕府と対立して、かなりやりこめられます。
そのやりこめにきた相手が薩摩藩で、
長州藩と薩摩藩はまさに犬猿の仲。