歴史
中学生

豊臣が太閤検地で
ます、ものさしの大きさ、長さを統一した理由を教えてください

回答

それまでの(室町時代)検地は、農民の自己申告『指出検地』、またその地で取れた米をお金に換算して地の広さの表すという『貫高制』が用いられていました。

しかしそれでは曖昧で不正確、枡もサイズがバラバラだったので、秀吉は役人を送り土地の調査し石高を定め(コメの量で換算『石高制』)、枡を統一『京枡』 し、誰がどのくらい田畑を持っているのかをはっきりさせました。

一地一作人の原則といって、一つの土地に何人もの権利が重なった状態も禁止しました。

それらにより、農民は自らの田畑の所有権を法的に(検地帳に登録されたため)認められましたが、石高に応じた年貢をしっかりと払はなくてはならなくなりました。←前みたいな自己申告制じゃないので、ちょろまかせないので…

全国の大名にも、検地帳と国絵図(その国の地図的な)を提出させました。
こうして全国の大名の石高も正式に決まり、それに見合った軍役を提供しました!
歴史物のドラマとか見るとよく、加賀百万石とかいいますよね!それは秀吉が行った検地があってのことですね!

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その時代での農業とは1番盛んで重要な仕事でした
なぜ農業が大事なのかというと、武士というのは農民が納めてくれた「年貢」をお金に変えることで生活をしていたためてます
つまり、武士にとって、お米はお金と同じくらい貴重なものだったのです
そして、武士が生活していくためには「どのくらいの年貢が、どこから納められるのか」を知る必要がありました
このため、秀吉は「どの土地から、どのくらいの年貢が納められるのか」を調べようとしたのです
「検地」とは、「その土地から収穫できる米の量を国が調べること」です
土地から収穫できる米の量を測るとき、当時は「枡」というものを使っていたのですが、なんと地方によって枡の大きさがバラバラだったのです!
つまり、ある所ではコップ一杯くらいの量が一升で、別のところでは洗面器くらいの大きさの器が一升だったわけです
このため、同じ数字の米でも地方によってぜんぜん量が違うということが起きていたのです
そこで、秀吉はまず「枡」の大きさを統一することを考えました

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ますは確か米の量を全て一緒にするためじゃなかったっけ?ますを小さくして米の量を減らす人がいたから。だった気がする。違ったらごめんなさい。

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