それまでの(室町時代)検地は、農民の自己申告『指出検地』、またその地で取れた米をお金に換算して地の広さの表すという『貫高制』が用いられていました。
しかしそれでは曖昧で不正確、枡もサイズがバラバラだったので、秀吉は役人を送り土地の調査し石高を定め(コメの量で換算『石高制』)、枡を統一『京枡』 し、誰がどのくらい田畑を持っているのかをはっきりさせました。
一地一作人の原則といって、一つの土地に何人もの権利が重なった状態も禁止しました。
それらにより、農民は自らの田畑の所有権を法的に(検地帳に登録されたため)認められましたが、石高に応じた年貢をしっかりと払はなくてはならなくなりました。←前みたいな自己申告制じゃないので、ちょろまかせないので…
全国の大名にも、検地帳と国絵図(その国の地図的な)を提出させました。
こうして全国の大名の石高も正式に決まり、それに見合った軍役を提供しました!
歴史物のドラマとか見るとよく、加賀百万石とかいいますよね!それは秀吉が行った検地があってのことですね!