✨ ベストアンサー ✨
1881年に板垣退助の自由党が誕生しましたよね。
(※自由党野→国民による政治を行うことを主張する集団)
国民の意見を聞いてくれ!と政府に向かって叫ぶ集団が出来るほど、明治政府は国民の意見を聞かない、いわゆる岩倉使節団の独裁を行っていたわけです。
自由党ができたところで政府がすんなり国民の意見を受け入れるわけがなく、政府側についている警察が自由党賛成派の国民と喧嘩します。この喧嘩達が「激化事件」とまとめて呼ばれています。激化事件の中の代表が、「秩父事件」なのです!!
詳しく言うと、秩父事件が起こった頃はもう既に自由党が警察に負けて解散していたのですが、「板垣死すとも自由は死せず」という板垣退助が叫んだとされる名言があるように
自由民権運動はまだ広まりを見せていたんです。しかし、
秩父事件で貧しい農民が「借金の返済の先延ばし」と「減税」を求めて政府に蜂起しましたが、警察に負けてしまって自由民権運動も衰退した...こういう流れです。
ありがとうございます😭
とてもわかりやすいです❗️