Japanese history
高中
已解決

平安時代の「徴税方式の転換と国司の変容」で
初期荘園、公営田、官田、勅旨田、在庁官人、名、田堵、大名田堵、遥任、目代、受領、国司などいろいろな単語が出てきて違いが分からなかったりするのですが、
これらを上手く図にまとめるとどうなりますか?
また、分かりやすいサイトや画像があったりしたら教えていただきたいです🙇‍♂️

解答

✨ 最佳解答 ✨

図にするのは苦手なのですが気になることもあったのでお答えします。上にあげた歴史用語をグループ分けした方が良いと思います。「徴税方式の転換と国司の変容」という教科書の項目は、10世紀頃に始まる地方支配の変化のことをいいます。
となると、初期荘園は墾田永年私財法(743年)によって中央の貴族や寺院が持つことになった私有地で、その経営は国司・郡司に依存していたため、郡司が没落する9世紀後半には姿を消します。ですから「徴税方式の・・」の項目で理解しようとすると混乱してしまいます。
同じような理由で、公営田・官田・勅旨田も平安時代前期(9世紀)に税収の減少により国家財政の維持が難しくなったため、役所が有力農民を利用した直営方式で財源を維持しようとしたもので、公営田は大宰府、官田は畿内の官庁の財源として利用されます。勅旨田は天皇の財源として設けられたものです。ですから、この3つの用語も10世紀の地方支配の変化の部分ではなく、9世紀のこととして理解しておいた方が良いでしょう。
本題です。10世紀になると様々な理由で税収の維持が難しくなっていました。戸籍・計帳を作って人民を把握し、成人男性から人頭税である調や庸をとるのは困難になっていました。そこで、この頃、地方政治の改革が進められます。まず、国司の制度を改革します。これまで国司は、「守・介・掾・目」という4つの役職に分かれ複数の貴族が任命されていましたが、それだと責任があいまいだったので、国司の最上席者(ふつうは守)に地方政治を任せることにしました。この国司制度が改革されて以降の国司の最上席者は「受領」と呼ばれます。これにより、国司に任命されても受領以外の国司は地方へ行っても仕事がありませんから、京都に残ることになります。この国司に任命されたけど京都に居続けた国司を「遙任」といいます。
では、受領は地方政治をどのようにしたのでしょう。受領の仕事は地方で税を徴収し、国ごとに決められた税額を中央に収めることです。また、臨時でおこなわれる儀式の費用を負担する場合もあるので、決められた税額以上に税を集めておかないと、臨時の出費に対応できません。その税を徴収するために従来の制度では、戸籍を作り、成人男性に課税をしていましたが、この頃には偽籍がおこなわれたり、課税を逃れるために逃亡などがおこなわれていましたから、受領は土地に課税し、その土地の経営を納税に耐えられる有力農民に任せることにしました。この有力農民を「田堵」と言います。(中には勢力をのばし、大規模な経営をおこない「大名田堵」と呼ばれるものもいました。)田堵が経営を任された田地は「名」と言います。例えば太郎さんが経営している名は「太郎名」というようにです。ちなみに、田堵が受領におさめる税は、官物や臨時雑役とよばれています。
以上のような仕組みで受領は徴税を行っていました。地方政治を任された受領は決められた税額を中央に収めていれば、何をしてもいいのですから、中には巨利を得るために必要以上に税を集める者もいました。そのため現地住民との間でトラブルになることもありました。これを訴えたのが、尾張国郡司百姓等解です。このような受領に対する現地住民の訴えが多くなり、次第に受領は地方で行き過ぎた政治をしなくなります。そうなると、徴税の仕組みは整っているのですから、その仕組みに従って現地の有力者に徴税事務を任せるようになります。この国司の役所である国衙で働く現地有力者を、「在庁官人」といいます。彼らがしっかりと仕事をしてくれれば、受領はわざわざ地方に行かなくても地方統治がまわります。そのため、次第に受領も地方にはほとんどいかず、自分の代わりに「目代」を現地へ派遣し、実務は在庁官人に任せるようになりました。
このようにして、律令制に基づいた地方支配は、10世紀に変容するのです。

くう

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