Japanese history
高中

どうまとめたら良いのか分かりません
誰かまとめて、教えてください🙇‍♀️

(2)中国への長期留学の経験を活かし、日本の国家形成に携わった 二人の人物について、 その共通項に触れながら、本文をもとにまと めてみよう。(教科書 P.64 参照)
日本人 世界を見た ●遣唐使の役割 けんとき。 遣唐使として唐に渡った人々がもたらした情報 今つりょう や文物は、律令にもとづく国づくりや、 日本の文 化形成に大きな役割をはたした。 しかし、 彼らが いざい 唐に滞在した期間は、必ずしも長くはない。 きいちょう 日本仏教展開の基礎を築いた最澄は9か月ほど くうかい 空海も留学を2年で切りあげている。 律令国家建 ふじわらのふ 「じっとう けんとうし 設を担った藤原不比等や藤原仲麻呂も入唐経験が 吉備真備の乗る遣唐使船 (「古大臣入絵巻」ポスト」 p.38 ない。 そうしたなかで, 長期の留学経験を帰国後 美術 にいかし、国家の建設に力をつくした二人の若者がいた。 ●粟田真人と律令国家の建設 あわたのひと p.41 たいほう へんさん 栗田真人は、まだ10代だったとみられる653年, 学問僧として唐に渡った。 帰国後還俗し、 原不比等らと大宝律令の編纂にたずさわったあと, 702年に大使として律令国家「日本」の「完 を報告するため再度入唐する。 白村江の敗戦でとだえていた外交の再開である。 この唐使が たらした新しい情報は, 平城京遷都や和同開珎発行など, 律令国家建設の軌道修正を導いた。 はくずきの へいじょうきょうせんどうかいちん ひと 人は719年に中納言で亡くなるまで国政に関与し,その学問と人 柄は高く評価された。 ●吉備真備と多彩な文化移入 ぴっ 吉備真備は,717年に遣唐留学生として22歳で唐に渡った。 備 ちゅう p.43 中国の地方豪族下道氏の出身で、父圀勝は右衛士府に勤務した下 うじ かんじん そくてんこう こうそう こうごう 級官人である。 「圀」は則天武后 (唐の高宗の皇后, 中国史上唯一の ふう しんしゃ 女帝となる)が定めた則天文字の一つで、最新文化導入の進取の 気風がうかがわれる。 こよみ 734年に戦の造唐使とともに帰国した真備は,礼制・暦・測 さい 量・音楽 軍事など多彩な分野の文化を日本にもたらした。 また だいがく ちゃくしゅ ぶんじんかん 役人養成機関である大学改革に着手するなど, 文人官僚として, げんぼう え 僧の玄昉とともに橘諸兄のプレーンの役割をはたす。 その活躍 そくてん ↑則天文字を記す9世紀の 器 (赤外線画像) 則天文字 「」 正)を用いて「正舎」 (中心建物の 味)と記す。 秋田県払田柵跡出会 ほったのさく WE ひろつぐ ひょうき ぶりは,740年の藤原広嗣の乱の標的になるほどだった。 その学 とう 才と経験をかわれ, 752年には遣唐副使として再度渡している。 せいじょう 長期留学の経験をいかした二人の若者 しら その後、唐の政情混乱や新羅との関係悪化で国際的緊張が高ま と ぞうえい さいかく はっき ると,九州に怡土城を造営するなど, 軍事的な才覚も発揮する。 みおかつ しゅうしゅう ばってき そして恵美押勝の乱を収拾した功績でさらに抜擢され, 766年に うだいじん 74歳で右大臣に昇進し, 771年に引退するものの, 775年に亡くな るまで政治生命をまっとうした。 口以 ●真人と真備の共通点 粟田真人は中央貴族,吉備真備は地方豪族という出身のちがい 井真成墓誌の本(部分) はあるものの、共通するのは若いころに唐に長期留学して学問を おさめ、しかもそれを後年自ら国政にいかせたことである。二人 がともに政争を生きぬき,また再度渡唐を経験したのは偶然では せいそう ないだろう。 64 きゅくし げんそう ちょうよう と同じ717年に18歳で渡唐し 年 「井真成」とよばれ に客死した 日本人の墓誌。 玄宗に重用さ 阿倍仲麻呂も, 真備や真成とい あべのなかまろ しょに16歳で唐に渡った。

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