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村上天皇の後は、冷泉→花山→一条→後冷泉などと続いていき、後冷泉天皇(1068年)まで摂関政治が続きます。
後冷泉天皇の次に即位したのは後三条天皇です。大江匡房などの学識に優れた人材を登用して、摂関・関白をおかない親政(天皇中心の政治)を行いました。
後三条天皇の次は白河天皇です。ここから院政が始まります。院政とは、子どもに天皇の位を譲位し、自分は上皇となって、子ども天皇を操って政治を行うことです。一応、この院政が承久の乱まで続きます。
しかし、院政期は平氏政権や頼朝の鎌倉幕府成立と重なってきます。これらの兼ね合いも見ていきましょう。
中世は武士の力も強まってきます。また、武士は反乱などを鎮圧することで朝廷側からも信任を得ました。
その時期に、鳥羽法皇の死後の後継争いが起こります。→保元の乱(崇徳上皇vs後白河天皇) 後白河win
そして、平治の乱で後白河側の側近同士の争いが起こります。→これで勝利した平氏が力を持ちます。
先述したような朝廷同士の争いを武家の力で解決したことが要因で、平氏(平清盛)は大きな力を持ちます。
清盛の政治は天皇の外戚となって威勢を振るう、摂関政治に似た物でした。
これに黙ってないのが、政治を握ろうとしていた後白河上皇です。後白河の子(以仁王)の令旨で平氏討伐が始まります。そして、ここで活躍した源氏が今度は力を持ちます。
守護や地頭を設置して、支配権を強め鎌倉幕府が成立します。
注意したいのは、幕府はあくまでも朝廷の下部組織ということです。
初めは鎌倉幕府は武士中心で動いていましたが、幕府内で御家人中心の政治を求める声が増えてきます。
→和田合戦なので、他の御家人を排斥した、北条氏が力を持ちます。
幕府がまた力をつけたことに、朝廷は怒ります。そこで後鳥羽上皇vs鎌倉幕府(北条氏)の承久の乱が起きますが、朝廷は大敗し、北条氏の執権政治が始まります。
鎌倉幕府と朝廷の関係については、初期は良好でしたが、上皇と連携をとっていた3代将軍源実朝の死や北条氏の台頭で関係は不安定になりました。
長くなりすみません🙏
分からない点があれば言ってください🙏
人物の流れはそのような感じで良いと思います🙆
了解です!ありがとうございます!
とってもわかりやすいご説明ありがとうございます泣
冷泉天皇から後冷泉天皇までは摂関政治が続き、その後の実権を握った人の順番としては後三条天皇→白河上皇→鳥羽上皇→(後白河天皇?)→平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)といった感じでしょうか?