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荘園制解体の始まりから説明しますね。
鎌倉時代、下地中分により荘園の一部を地頭にとられていましたが、地頭請によってなんとか和睦してました。これが解体の始まりです。
※下地中分→荘園領主と地頭で領地を分割し、互いに 支配権権を認める。
地頭請→地頭に荘園の管理を任せてあげる代わりに地頭は領主に一定額の年貢を納める。
そして南北朝期。
守護の権力が強まりました。(=守護大名)今までの地頭の権限が守護に移った感じです。その代わりに守護は在京していました。中央の決定は守護代を通して守護に伝えられました。
そして半済令と守護請。
※半済令→荘園、公領の年貢の半分を守護がもらう。
守護請→地頭請守護ver.
この守護による荘園侵略も荘園制の崩壊を促進します
最期に応仁の乱。
守護達が10年間京都で戦っている間に、日本でも反乱が起きていました。守護達はそれを鎮圧するために地本に戻りました。そこで殆どの守護大名はやられてしまい、再び集まることはありませんでした。これが守護が在京して幕政に参加する幕府体制の終わりです。
そうすると、守護がいなくなった荘園は国人領主(鎌倉時代の地頭)が武力で横領しました。
これが荘園制の解体です。
ちなみにこの国人や守護代が大台して、戦国大名に成長し、下剋上の風潮が生まれました。
反応遅くなってしまってすみません💦
とってもわかりやすいです!
とても丁寧な解説ありがとうございます!