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日本史 高校生

教えてください🙏

問1 問4 問2 問3 20 原始・古代 ●第1問 次の文章を読んで、下の問いに答えよ。 (オリジナル問題) この強化を目指し ( 1 ) への遷都を行った。 しかし, その都の造営事業の中心人物であっ 8世紀後半, 光仁天皇の政治を引継いだ桓武天皇は, 仏教勢力の影響を排除し, 天皇権力 た (2)が暗殺されるという事件が起こり, 造営事業は中断を余儀なくされた。その後, つぐ 平安京の造営が行われたが, 桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用した政治を行った。 桓武 a 天皇のあとに即位した嵯峨天皇も律令制の再建をめざし、法制の整備などを積極的に進める とともに、あらたに令外官を設置するなどした。 問1 文中の空欄1 2にあてはまる語句を答えよ。 問2 下線部に関する史料Aについて これは藤原緒嗣が建議した "内容であるが, 緒嗣の建議した内容と それに対する桓武天皇の対 応について 40字以内で述べよ。 問3 下線部bについて、桓武・嵯峨天皇の政治について述べた文として正 の①~④から一つ選べ。 また、誤りの選択肢は、その箇所を正しくなおせ。 ① 平城太上天皇の変に際して、藤原不比等を蔵人頭に任じた。 ●第2問 次の史料を読んで、下の問いに答えよ。 (2016 センター追試・改) だいそうず でんとうだいはつ しい 大僧都伝灯大法師位(僧の地位) ( 3 ) 紀伊国の禅居(修 $ 行する寺) に終う。 (中略) 法師は,讃岐国多度郡の人なり。 さえきのあたい 俗姓 (出家する以前の姓)は佐伯直。 (中略) 書法に在りては最も ちょうし ひと その妙を得て、 張芝 (後漢の著名な書家)と名を斉しくし、草聖(草 時に 真道異議を確執して肯えて聴かず。 天下の苦しむ所は軍事と造作となり、 話して 白姓安んぜも」 「続日本紀」 即ち停廃 「万分 とくど 書の達人)と称せらる。 年三十一にして得度(国家の許可を得て出家し、 ② 律令を補足・修正した式を集め、 弘仁格式を編纂した。 ③ 国司交替の際の事務引き継ぎを監視するために健児を設けた。 ④ 京内の治安維持をはかるために検非違使を設けた。 問4 19世紀の政治・文化に関して述べた次の文X ~Zについて, その正誤を○×で答えよ。 また、誤りの場合はその箇所を正しくなおせ。 X 征夷大将軍の紀古佐美は、蝦夷征討の拠点として胆沢城を築いた。 Y 国家財源を確保するため、畿内諸国に直営方式の公営田が設けられた。 Z 密教が盛んとなり, 密教世界を絵画で表現した過去現在絵因果経が制作された。 につとう がく 僧尼となること) す。 延暦二十三年、入唐留学す。 青龍寺(長安にあっ に希真此天A けい かわじょう あ た寺)の恵果和尚に遇いて真言をけ学ぶ。 (「続日本後紀』) 道 の 今 しいものを、次 たまわ 問文中の空欄には,図Bが安置された寺院を嵯峨天皇から賜った人物が入る。その 人物名を明らかにして、史料から読みとれるこの人物の経歴を60字以内で述べよ。

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歴史 中学生

社会得意な方これほんとにわからないので教えて下さい😭

りつりょう (エ) ④ に関して、奈良時代には,律令にもとづいて政治が行われていた。 次の略地図Iは奈良時代 線 の人々が、ある目的で地方から都まで歩いて行くときにかかる日数 略地図 ⅡIは奈良時代の人々が、その 目的を終えて都から地方まで歩いて帰るときにかかる日数をあらわしたものである。 表は, 律令体制下 における, 人々の主な負担をまとめたものである。これらをもとに、奈良時代の人々が都まで行くとき と都から帰るときにかかる日数の違いと、 その違いが生じる理由について60字以内で書きなさい。 解答 にあたっては、略地図 Ⅰ. 略地図Ⅱ からは、行くときと帰るときとでかかる日数の違いを読み取ったう えで行くとき, 帰るときという語を必ず用いて書き、 表からは,その違いが生じる理由を読み取った うえで, 都という語を必ず用いて書きなさい。 なお, 文末は句点(。) で終わり, 全体の字数に入れること。 略地図 Ⅰ 人々が地方から都まで歩いて行くときにかかる日数表 律令体制下における, 人々の主な負担 9日以内 内容 10日以上~19日 20日以上~29日 30日以上~39日 140日以上~ 大宰府 G 平城京 3 平城京 (8世紀ごろ) | 略地図Ⅱ 人々が都から地方まで歩いて帰るときにかかる日数 19 日以内 | 10日以上~19日 20日以上~29日 30日以上~39日 40日以上~ 大宰府 ( 8 世紀ごろ) (注) 略地図I略地図Ⅱは,平安時代前半の数値である。 また、九 州は大宰府までの所要日数。 (略地図Ⅰ. 略地図ⅡIは、 「延期式」をもとに作成) 租 よう 庸 ちょう 調 防人 稲の収穫量の約3%を地方の役所ま で納める税である。 ろうえき 労役の代わりに,布などを都まで運 んで納める税である。 地方の特産物を都まで運んで納める 税である。 九州地方北部で3年間、警備にあた る兵役である。

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日本史 高校生

大至急!!!!! 9世紀ころから地方政治が乱れていく理由について 教えて欲しいです🙇‍♀️

ョ入 (『粉河寺縁起 把東 ながからびっ 歳)左の長唐橋 下,右には海の幸 分 息を が利り 濫えめ国 行取 の 横号る守象 法非 藤 公事(→p.56)と こくし ふじわらのもとなが あっせい ぐんじりゃくしょう。 げぶみ の国司の長官藤原元命の圧政に対する農民の訴え(尾張国郡司百姓等解文) おわり たもの。 地方政治の 9世紀になると,政府は租税の実質的な確保を目 こくし 転換と受領 ぎょうせい 的に,しだいに実際の地方行政の運営を国司に任 ふにん せるようになった。その結果,現地に赴任した国司の最上席者に権限 が集中するようになり, 彼らは受領(前任国司から国務を受領した者) とよばれた。一方, 受領以外の国司の地位はその収入だけが目的とさ ずりょう ようにん0 ふゆう れ、現地に赴任しない遥任もさかんに行われるようになった。富裕な じょうごう いなばどう (『因幡堂縁起絵 いなばの 橘行平が因幡 ちょうにん 受領は,成功によって重任したり, さらに実入りのよい国の受領に移 たちばなのゆきひら るようす。 ったりした。 はんでん だいちょう こせき けいちょう 班田が行われなくなり, 課税の台帳となる戸籍· 計帳も作成がとだ 見地には赴任せ 三受けとること。 は、受領も交替 二行かなくなり. 現地の有力者 マ治を任せるよ 2 こく が6 →p.28 えたため,10世紀ごろから, 国術では, 方法をかえて課税するように くぶんでん こう ち なった。まず,ロ分田などの公地を, 期間を定め耕作を請け負う有力 たと みょうでん みょう な農民(田堵)の名前をつけた田(名田,名)ごとに区分し,この田を単 そ ちょう よう ぞうよう 位に,租,調 庸, 雑鑑にかわる, 新しい形で課税した。こうして, →p.29 りつりょう 一紀初めには全 れなくなった。 三初めまで作成 , 女性ばかり 三態とかけはな 課税の対象は,律令体制下での人(成年男子中心)から, 土地(名田中 心)へと移っていった。 15 ふろうにん 有力な農民(田塔)は, 一族とともに農民や浮浪人を使って周囲に撃 でん 田を広げ,広い地域を支配するようになった。受領のなかには, 自己 かこく ちょうぜい →p.56 の収入を増やすためもあり, 過酷な徴税を行った者も多かった。その た。 平安時代以降 ようになる。 ぐん じ ため,郡司や有力な農民は, しばしば受領と衝突し, 10世紀後半から 11世紀にかけて,協力して受領の圧政を政府に訴えることもあった。 あっせい け負う有力農 ニれた。また, k, 当時, 官 20 地方で争乱がおきると, 政府は中央の下級貴族や, かん 武士の誕生 つい ぶし6とうよう おうりょう し ちんあつ よばれた。 地方の有力者を押領使や追捕使に登用して鎮圧 受目であった ら常置とな ち あん しへい し,治安維持にあたらせた。彼らは私兵をひきいてこれにあたり, そ の地方に勢いをのばしていき, やがては都で内裏や貴族の邸宅の警備 じょうち だいり ていたく たきぐち 式士を滝口と も行うようになった。 こうして朝廷の武力としての武士が誕生した。 国家の形成と貴族文化の誕生 しあげる)、 の稲〈正税》 の内に収 稲の出挙) 無きに依一 U事..………… 八日 ·百姓等 し、政府の 郡内の徴税 国司から任

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