日本史
高校生
解決済み

大至急!!!!!
9世紀ころから地方政治が乱れていく理由について
教えて欲しいです🙇‍♀️

ョ入 (『粉河寺縁起 把東 ながからびっ 歳)左の長唐橋 下,右には海の幸 分 息を が利り 濫えめ国 行取 の 横号る守象 法非 藤 公事(→p.56)と こくし ふじわらのもとなが あっせい ぐんじりゃくしょう。 げぶみ の国司の長官藤原元命の圧政に対する農民の訴え(尾張国郡司百姓等解文) おわり たもの。 地方政治の 9世紀になると,政府は租税の実質的な確保を目 こくし 転換と受領 ぎょうせい 的に,しだいに実際の地方行政の運営を国司に任 ふにん せるようになった。その結果,現地に赴任した国司の最上席者に権限 が集中するようになり, 彼らは受領(前任国司から国務を受領した者) とよばれた。一方, 受領以外の国司の地位はその収入だけが目的とさ ずりょう ようにん0 ふゆう れ、現地に赴任しない遥任もさかんに行われるようになった。富裕な じょうごう いなばどう (『因幡堂縁起絵 いなばの 橘行平が因幡 ちょうにん 受領は,成功によって重任したり, さらに実入りのよい国の受領に移 たちばなのゆきひら るようす。 ったりした。 はんでん だいちょう こせき けいちょう 班田が行われなくなり, 課税の台帳となる戸籍· 計帳も作成がとだ 見地には赴任せ 三受けとること。 は、受領も交替 二行かなくなり. 現地の有力者 マ治を任せるよ 2 こく が6 →p.28 えたため,10世紀ごろから, 国術では, 方法をかえて課税するように くぶんでん こう ち なった。まず,ロ分田などの公地を, 期間を定め耕作を請け負う有力 たと みょうでん みょう な農民(田堵)の名前をつけた田(名田,名)ごとに区分し,この田を単 そ ちょう よう ぞうよう 位に,租,調 庸, 雑鑑にかわる, 新しい形で課税した。こうして, →p.29 りつりょう 一紀初めには全 れなくなった。 三初めまで作成 , 女性ばかり 三態とかけはな 課税の対象は,律令体制下での人(成年男子中心)から, 土地(名田中 心)へと移っていった。 15 ふろうにん 有力な農民(田塔)は, 一族とともに農民や浮浪人を使って周囲に撃 でん 田を広げ,広い地域を支配するようになった。受領のなかには, 自己 かこく ちょうぜい →p.56 の収入を増やすためもあり, 過酷な徴税を行った者も多かった。その た。 平安時代以降 ようになる。 ぐん じ ため,郡司や有力な農民は, しばしば受領と衝突し, 10世紀後半から 11世紀にかけて,協力して受領の圧政を政府に訴えることもあった。 あっせい け負う有力農 ニれた。また, k, 当時, 官 20 地方で争乱がおきると, 政府は中央の下級貴族や, かん 武士の誕生 つい ぶし6とうよう おうりょう し ちんあつ よばれた。 地方の有力者を押領使や追捕使に登用して鎮圧 受目であった ら常置とな ち あん しへい し,治安維持にあたらせた。彼らは私兵をひきいてこれにあたり, そ の地方に勢いをのばしていき, やがては都で内裏や貴族の邸宅の警備 じょうち だいり ていたく たきぐち 式士を滝口と も行うようになった。 こうして朝廷の武力としての武士が誕生した。 国家の形成と貴族文化の誕生 しあげる)、 の稲〈正税》 の内に収 稲の出挙) 無きに依一 U事..………… 八日 ·百姓等 し、政府の 郡内の徴税 国司から任
上野〈下野 信濃 港 武蔵 甲斐 いわ 石井 の平将門のに の乱 の武士の争い(『法然上人絵日 知恩院蔵) ほうねんしょうにん かん むへいし 桓武平氏は、早くから東国に土着して,各地に勢力をのばした。そ の一族で下総の平将門が935(承平5)年におこした平氏一族内の争い えを目 は、その後,939(天慶2)年には, 将門が常陸の国府をおそう大きな反 コに目 乱へと発展した。将門は, 下野, 上野,武蔵,相模の諸国の武士をし 二権身 た者 とうごく とちゃく しもうさ たいらのまさかど じょうへい ~940 てんぎょう ひたち こくふ しもつけ こうずけ むさし さがみ しんのう たがえ新皇と称したが, 940(天慶3)年,追討軍が下向する前に,平真 ついとう げこう さだ O当時の年号から, この二つ の乱をあわせて承平·天慶の 乱ともよぶが,反乱に発展し たのは、天慶年間のことであ コとき もり ふじわらのひでさと 盛と藤原秀郷によって討たれた(平将門の乱)。 生没年不詳 ゆう 生没年不詳 い よ 一裕な すみとも 伊予に土着した藤原純友も, 939年に有力な武士(土豪·海賊)をひ どごう ?~941 に移 る。 きいて,瀬戸内海沿岸諸国の国府や大宰府をおそったが, 941(天慶4) だざいふ みなもとのつねもと 年,源経基らによってほろぼされた(藤原純友の乱)。 ?~961 承平·天慶の乱がおこった際,実際に鎮定のため に活躍したのは, 私兵をひきいた地方の武士であ った。特に東国は, 古代以来の枚(牧場)が多く良馬を産出してきたう ちんてい とだ 10 武士団のおこり うに 有力 えみし え,たびたびの蝦夷攻撃の際には馬と兵士を供給していたこともあり, 騎馬にすぐれた武士たちを組織できる条件がととのっていた。 私兵をひきいた武士は, 対立抗争を通じて, しだいに強力な武士が を単 →p.41 して 15 田中 他を統合し,武士団を形成していった。 彼らは地方の有力な領主とし 良も国 とるい ほり やかた いえの こ て,要地に土塁や堀をめぐらして, 館をかまえた。そして一族(家子) 門を盛 ろうとう や一族以外の者(郎党)をひきい, 馬に乗り, 弓矢を武器とし, 戦う兵 士(武士)としての日常訓練を積んで, 私的な争いに備えた。 また, 国 その 20 街の招集に応じて, 受領による地方政治をささえた。 とうそつ から 11世紀になると,強力な武士団の信望あつい統率者は, 多くの中小 とうりょう 武士団を配下にしたがえ, 武家の棟梁とあおがれるようになった。 そ の代表が,東国に勢力を広めた源経基の子孫の源氏(清和源氏) と, 伊 勢を本拠地とする平氏である。 両氏は在京して国家の武士としての役 の平氏系図(正盛まで) 先祖 の天皇にちなんで桓武平氏とよ げん じ せいわ ばれる。 せ ほんきょ んあつ >なぜ藤原道長は, 娘を 25 割をはたしながら受領として財力をたくわえる一方, 地域に根ざした 天皇の妃にしようと考え たのだろうか。 武士としても勢力をのばしていった。 4 摂関政治と文化の和様化 47 1維持 北条氏祖 桓武天皇|葛原親王LT高望王 - ゆー佐

回答

✨ ベストアンサー ✨

まず農民の間に貧富の差が拡大し、有力農民も貧しい農民も税負担を逃れるために戸籍に記載されている場所から浮浪や逃亡をしたこと。そして戸籍には成人男性を登録しない偽籍が増えてきて、律令国家が人々を把握できなくなっていたという状況があります。
また、有力農民の中には院宮王臣家と呼ばれた有力な皇族や貴族の保護を受けながら、国司の支配に抵抗するようになったことなどが挙げられます。

えいじ

ありがとうございます!!
ちなみに!このXとYに当てはまる言葉分かったりしますか?!

喜重郎

Xは尾張で大丈夫ですよ。Yも上の史料にの穴埋めのaにあなたが書いているじゃないですか!
当国の守(a   )です。国の”守(かみ)”は、国司の四等官”守・介・掾・目”の最上席者の”守”です。国司の最上席者を受領と言いました。

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