作文
高校生
解決済み

小論文で、「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」というテーマで書くことになりました。
私は、このテーマに反対ということを書くつもりなのですが、良い事例が思い浮かばなくて、なにか思いつくのはありますか??

回答

✨ ベストアンサー ✨

そもそも、そんな行為、定義不可能である、が端的でしょうか。
他者に迷惑をかけない限り、何をしてもよいというのは、いわゆる自由という概念の最小の条件、人は他者の自由を侵害しない範囲で自由であるというのと同様に見えます。しかし、こんな範囲、そもそも定義不能ですし、この定義の反例はいくらでもあります。
例えば、シートベルトはどうでしょうか。シートベルトを着用しないことによって生じる損害は自分のみが受けるのであって、誰にも迷惑かけていないじゃありませんか。逆に言えば、誰の自由も侵害しておらず、誰の迷惑にもならないのに、シートベルトをしたことによって生じる不快感を避けたいというような僕の自由を、国家が介入して制限してはいませんか?しかし、これは罷り通る事実があります。ならば、何をしてもよいというのは、そもそも命題として誤っているのは自明でしょう。

なお

もう少し精密に議論してみましょうか。
そもそも、迷惑とは何かを定義しましょう。ここでは、迷惑行為というのは、他者の自由、権利及び規範を侵害する行為と定義しましょう。例えば、夜騒ぐのは、静かに暮らしたいという自由を侵害しており、電車の床に座り込むのは、通行の権利を侵害している、電車内のおける守られるべき規範を乱しているとみなすことにするわけです。

なお

さて、この範囲において、我々は自由たり得るのか考えていきましょうか。自由のミニマムな定義は、他者の自由を侵害しない範囲で自由である、ですから、とりわけ、他者の自由を侵害しない範囲での自由があり得るのか考えていきましょうか。この思考は大丈夫ですか?我々は、他者の自由または権利または規範を侵害しなければ自由である、という主張があるわけですから、そもそもあらゆる行為が他者の自由を侵害し得ると証明すれば、権利や規範を侵害せずとも、自由を侵害しているという理由で、あらゆる行為が許されないと主張できますよね。

なお

さて、我々はここから、自由に内在化された自己矛盾を露わにしていきましょうか。
そもそも、自由というのは、無限の空間、無限の地球を暗黙の前提とした概念でした。しかし、我々はそうではないと知っています。それは、エコロジーの台頭によるものです。環境問題の深刻さが自覚された1960〜1970年代にかけての問題と、現在扱われている問題が異なることは一応知っておいてください。かつては、公害や天然資源の量的制限が主題でしたが、今では二酸化炭素などが主題です。かつての問題意識は、実はさほど重要ではありませんでした。なぜなら、我々は公害を引き起こさない程度の薬品の使用の自由は有していますし、天然資源の量の範囲内ならば、我々は自由たり得たのです。いわば、こういった規制は、我々の自由の外側に囲いを作っただけで、我々の自由自体には影響がなかったわけです。しかし、二酸化炭素となると、自由はひとたまりもありません。自由のミニマムな定義に当てはめれば、我々は、二酸化炭素を排出しない限りで自由であるなんて範囲は定義不能でしょう。例えば、煙草なんてどうですか?例えば、密閉空間や狭い空間で目の前でタバコを吸われたら、しばき倒したくなりますよね。これを二酸化炭素に置き換えれば分かりやすいでしょう。

なお

さらに、あらゆる生物や将来の世代の自由というように、自由が広義に扱われるようになったことも注意せねばなりません。このように自由を拡張していく時、地球という空間は、あまりにも狭いのです。
このように考えを進めていけば、事実上、いま目の前にはいない他者をも含めた他者に迷惑をかけないような範囲というのは、定義不能なのです。
逆に言えば、もし仮に他者に迷惑をかけない限り何をしてもよいが真ならば、それは、単にあなたがかけている迷惑に自分が気がついていないだけです。いわば、素晴らしき勘違いですよ。

なお

人は人と人が支え合ってできている字だなんてよく言いますが、まあ正しく言えば、片方が支えて、片方は楽してる、でしょう。国民皆保険なんかもそうでしょう。あれ確実に、健康な人が損して、不健康な人がフリーライドしてるじゃないですか。結局、我々は生きているだけで他の人に迷惑をかけているのですよ。ただ、その迷惑が制度や空間的時間的な隔たりを媒介にしているために顕在化していないだけなのかもしれません。とすれば、我々が信じてやまない自由なんてのは、少なくとも近代思想に依拠して構築された自由は、破綻しているのです。

なお

ならば我々は、近代思想に依拠した自由を再構築し、現代思想的な自由を定義せなばならないのである。自由が、神の御技でないのならば、すなわち人間が自由を構築したのならば、人間はそれを再構築し、新たな自由を作ることもまた可能であろう。
僕なら、差し詰めこんな感じで締めくくりますね。

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