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綱吉はなぜ朱子学を奨励したんですか?

回答

✨ ベストアンサー ✨

江戸幕府の方針は、武断主義という武力によって大名を抑え込むという方針でした。
しかし、4代将軍の家綱の頃になると
牢人と呼ばれる武士が増加して、
一部の者は「かぶき者」と呼ばれる集団を形成して社会不安を増大させました。
よく時代劇などでよくあるシーン、
街中を肩で風を切って歩く集団が町中で
きれいな女の人を見かけて「そこのお女中、われらに酒のお酌をしてくれぬか」というシーンです。このような集団は多くは、次男や三男といった家督相続権からはちょっと距離があるというか、母屋では暮らせない「冷や飯食い」といった立場の者たちでした。今風に言えば、将来の進路が開けてなくてグレている者たちです。彼らに強姦された女性の中には、子供を産んだのちに捨て子をしたりしました。また、彼らは、野犬を捕まえては食べるようなこともしていました。そのような中で由井正雪を首謀者とする慶安の変が起こります。これには多くの牢人が関与していました。そこで幕府は増加する牢人対策として、50歳未満の大名について、末子養子を認めました。そして、徳川綱吉は将軍が変わるごとに出される武家諸法度を公布します。第一条に「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改められます。これは、従来の武断主義から文治主義へへの転換であり、儒学の中でも秩序を重んじる学問である朱子学を奨励して精神的なバックボーンとしました。これが各藩にも波及して藩校が各地に建てられ、朱子学は、学問の中心になりました。

ゲスト

そんなこともあったんですね…
早急かつ、詳しい回答ありがとうございました

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