日本史
高校生
解決済み

源義経はなぜ逃亡したのですか?
また、奥州藤原氏のところになぜ行き、奥州藤原氏はなぜかくまったのですか?

鎌倉時代

回答

✨ ベストアンサー ✨

源義経は、一ノ谷の戦いで勝ったほうびに 後白河法皇が
官位を もらいました。
それは、源頼朝(お兄ちゃん)許可なし だったんですね、、
頼朝は 鎌倉で武士をまとめようと、必死だったので、義経が
京都で法皇の側近になると思うと、ガマンが出来なかったんです。
そして、義経は鎌倉入りを禁じられてしまいます。

義経は頼朝に許されず、義経が子供の頃も(牛若丸時代)
奥州藤原氏は、義経をかくまっています。きっと昔から
つながりがあったんでしょう。
しかし、二回目は義経は命を狙われていますよね?
なのにかくまったのは、
天才的武将と呼ばれ、平家を滅ぼした
戦の腕に期待していたから。と言われています。

長文失礼しましたm(_ _)m

りお🚀

変な文がありました、、、
7行目
義経は頼朝に許されず義経が子供の頃も
かくまっていた、奥州藤原氏のところヘ行く。
ですね、、、すいません。

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回答

壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたものの、天皇の皇位継承の証である三種の神器をいくつか海から見つけ出せなかったため、兄である源頼朝に追われることになってしまったからです。
なぜ奥州藤原氏に頼ったかというと、そもそも源氏は義経の父の代で平家に敗れ、義経は追われる身、平家に監視される身になっていたのですが、義経は生存の条件であった出家を拒み、寺を抜け出します。その頃、まだ頼朝と出会う前の青年期を過ごしたのが奥州藤原氏の平泉だったようです。
その縁もあり、義経は弁慶らと共に奥州藤原氏に助けを求めました。
しかし、匿ってくれていた奥州藤原氏3代、秀衡が亡くなると、4代泰衡によってその存在が頼朝の知られるところとなります。この後、義経は頼朝に滅ぼされ、また、元々奥州藤原氏を滅ぼそうとしていた頼朝によって、反逆者義経を匿っていたことを口実に奥州藤原氏も滅ぼされます。
説明わかりにくくてすみません、、

ログアウト

補足させていただきます。
そもそも、壇ノ浦の戦いで平家側の幼い天皇、安徳天皇は入水して果てます。(自殺します。)この時、平家側は源氏に天皇の座を渡すものかと、最後の意地で天皇の証、三種の神器も海に落とします。
義経はこれを見つけ出せなかったのは先述した通りですが、これに加え義経は頼朝の重臣で義経に付いてきていた者と戦いにおいて意見が合わず、この重臣が頼朝に「告げ口」(義経は家臣のことを考えない、など)をします。
元々頼朝に無断で官位を貰っていたりしたことで頼朝の怒りを買っていた義経は、この件で頼朝を完全に怒らせることとなり、追われる身になったのです。

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