歴史
中学生

日本国憲法はなんでできたのか詳しく、わかりやすく教えてください!

回答

1945年(昭和20年)8月15日に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し[2]、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された[2]。

国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を定め、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある[2]。

2017年5月日現在、施行されてから一度も改正されていない現行憲法としては世界最古である[3]。そのため、日本国憲法の原文は歴史的仮名遣であり、漢字表記は当用漢字以前の旧字体を使っている。

原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている[4]。

概要

「憲法」の意味

詳細は「憲法」を参照

「憲法」という言葉には多くの意味があり、一義的ではない。次の三つの重要な意味がある。

形式的意味の「憲法」:「○○国憲法」など、憲法という形式を与えられた文書(憲法典)のこと。実質的(固有の)意味の「憲法」:国家の統治の基本を定めた法のこと。形式的意味の憲法と対比する意味では実質的意味の憲法といい、立憲的(近代的)意味の憲法と対比する意味では固有の意味の憲法という。立憲的(近代的)意味の「憲法」:国家の専断を排し、国民の権利を保障するという立憲主義に基づく憲法のこと。

日本国憲法は、

「日本国憲法」という形式の文書であることから、形式的意味の「憲法」にあたる。日本における国家の統治の基本を定めた法典であることから

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日本側独自の改正案は不採用に

終戦を迎えた1945年の10月11日、当時の幣原首相は連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥から、憲法改正の指示を受けた。これを機に、同年の10月中旬、憲法問題調査委員会が設置された。憲法問題調査委員会は、憲法改正案を作るというよりも、将来改正の必要が生じた際の準備を整えることを当面の目標として設置されたが、次第にその審議は改正案の作成の方向に向かっていった。調査委員会の主任を務めた松本国務大臣は、調査委員会で出された意見を参考にしつつ、自らも起案した。しかし、1946年2月1日に毎日新聞にスクープされた松本委員会案は「第1条 日本国は君主国とす」など、明治憲法の字句上の修正に止まるものであった。

一方で、1945年12月末には高野岩三郎氏を中心とする憲法研究会の草案要綱、これに続いて共産党の要綱が発表された。共産党の憲法草案の特徴は、天皇制を廃止して共和制を採用していること、自由権・生活権等が社会主義の原則に基づいて保障されていることである。

自由党は、同党の憲法改正特別調査会の浅井清慶大教授と金森徳次郎が中心となり、「憲法改正要綱」を作成し、1946年1月21日の総会で決定した。また進歩党は、2月14日の総務会で「憲法改正要綱」を決定した。両党の案は、天皇大権の廃止、制限や人権の拡張に関する条項があるものの、共和制を否定して、天皇の位置付けを統治権の「総攬者」もしくは統治権を「行ふ」ものとしており、総じて明治憲法の枠組みを堅持した保守的なものであった。

一方社会党は、民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となり、党内左右両派の妥協の産物という色合いが強い「憲法改正要綱」を、2月23日に発表した。同要綱は、「主権は国家」にあるとし、統治権を分割、その大半を議会に、一部を天皇に帰属させることで、天皇制を存続するとともに、議会の権限を増大し、国民の生存権の保障や死刑制度の廃止等を打ち出した点に特色がある。

しかし結果的には、調査委員会の立案に対してはさほど影響を及ぼしていない。結局、調査委員会は松本案を司令部民政局に提出したが、戦争のできない国にしたかったGHQは日本政府による新憲法案の作成を断念、自ら作成を始める。

マッカーサー草案を元に憲法成立

司令部からは、代わりに司令部案(いわゆるマッカーサー草案)が1946年2月13日に提示された。内容としては、占領政策を円滑に進めるために天皇の戦争責任を問うことなく天皇の権威を利用すること、その代わり天皇は象徴の地位に止めること、また軍国主義の体質を除去するため戦争は放棄することなどを骨子とするものであった。

これに対し、天皇制が護持できるか否かを最も重視していた幣原内閣は国体護持のためにはやむなしとしてこの草案を受け入れた。このマッカーサー草案に基づき、2月26日に日本案の起草が始められ、3月6日には憲法改正草案要綱として内閣から公表された。その後、数回にわたって修正が加えられ、憲法改正草案が4月17日に公表される。4月22日に枢密院での審議が開始され、若干の修正が加えられた上で、6月7日に可決された。6月20日、改正案は帝国憲法改正案として第90回帝国議会に提出された。8月24日に衆議院の本会議で修正可決され、ただちに貴族院に送付された。貴族院では、10月6日の本会議で衆議院送付案を修正可決し、衆議院に回付した。この後、再び衆議院、枢密院での審議を経て、日本国憲法は11月3日に公布されることとなった。

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