✨ ベストアンサー ✨
①他人の田んぼの稲を勝手に刈り取る行為は歴史用語で「刈田狼藉」と呼ぶのですが、何故そもそもこんなことが起こるのかということに目を向けると、当時は一つの土地と言えども、幾人もの人が
「ここは俺の土地!」
「違う!何言ってんだ!ここは俺の土地!」
と主張してたわけです。そして基本的に
「ここは天皇からもらった土地だ!」
という書状等で証明出来ればいいですが、そうじゃない連中はどうしたか、
「ここは俺の土地なんだから勝手に稲を刈り取ってもなんの問題もない!」
という見せつけの為にやったりなんかしたわけですが、やられた方はたまったもんじゃないので、しょっちゅう裁判になっていたわけです。んで面倒臭いので、鎌倉幕府が色々するのではなく、現地の守護に解決を一任し、それを幕府に報告する。これが鎌倉時代でした。
ただ室町期に入って
国内が荒れている=農作物の生産量も下がる=武士の困窮に繋がる等々はまずいと判断し、国内安定化の為に守護の権限を強化した、これが苅田狼藉の取締り権及び、使節遵行権(使節を派遣して幕府の命令を遵守させること)です。
因みに荘園の年貢を半分取っていいとしたものを半済令と言い、これが守護を強化し、守護大名へと至る契機となります。この半済令は観応の擾乱がきっかけで出されたものなので、②はまだ南北朝期には誕生していないと言えるでしょう。
③守護と守護大名の違いは保持する権利の違いです。守護はあくまで現代の警察のようなものです。鎌倉初期の守護の権利は大犯三箇条(京都大番役の催促、謀反人、殺害人の逮捕)でしたが、徐々に上記の苅田狼藉の取締り権、使節遵行権、半済権などの権利を手に入れ、実際に領国に対して絶大な影響力を及ぼすことになり、軍事、警察権のみならず、経済的な影響力も持つようになった室町時代の守護を一般に守護大名と呼びます。
ご丁寧にありがとうございます!とてもわかりやすく助かりました!
訂正
室町時代ではなく鎌倉末期〜南北朝期にかけて守護権限が強化されています。