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本能寺の変で明智を討った豊臣は、天下統一をしただけでは飽き足らず、そのまま朝鮮も手に入れようとしました。(諸説あります)
文禄の役(1592〜1593)と慶長の役(1597〜1598)の2度の役がそうです。これを朝鮮出兵と言います。


秀吉は武士であるのにもかかわらず、征夷大将軍ではなく関白になりました。
征夷大将軍になるためには相応な家柄が条件になることから、「百姓出身の秀吉は『征夷大将軍』にはなることができなかった」という説も囁かれています。


秀吉が天下統一をする上で、秀吉に従わない関東と東北を従わせるため、その周辺に独立している諸大名らと外交を行い、臣従するようにと促しました。
大名たちも劣勢だったのでそれに従い、北条氏を倒してくれと要請しました。つまり北条氏は、北も西も、すでに秀吉側の勢力に囲まれていたわけです。
北条氏の本拠・小田原城は難攻不落といわれていましたが、豊臣率いる20万を越す大軍に包囲され、3ヶ月で降伏しました。
結果、北条氏政は切腹、氏直は高野山へ追放になりました。

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北条氏って北条時宗とかですか??

しらおと。

そうです。執権(鎌倉幕府の将軍の補佐)の位を独占していた方たちですね。

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