歴史
中学生
解決済み

模範解答に納得がいきません。
おもに江戸時代では収穫高によって納める年貢の量が変わっていたのが、地租改正によって地価の一定の割合、
つまり収穫高にかかわらず、同じ量収めるようになっ
たんですよね。(違ったら訂正お願いします)

江戸時代で収入が安定しないのって、米価は関係なくないですか?
江戸時代では収穫高に影響受けて年貢収納高が変
わっていたわけですよね。
従来の方法(地租改正以前)において米価が不安定な
ことが税収が安定しないことにどのようにつながるの
ですか?
なぜ地租改正によって米価が不安定でも税収を安定さ
れることができると模範解答に書かれているのでしょ
うか。

② 右の資料は1868年の米価を1.0としたときの 胞米価の推移を表し ■明治初期の米価の推移 2.0 式ている。政府が従 来の年貢を引き継 いだ方法をやめ, 1.0 地租改正を実施し た理由を,資料の 0 1868 1874(年) 1872 (「数字でみる日本の100年」) 1870 推移全体から読み 取れることをもとに,簡潔に書きなさい。(山梨〉 資料活用
(例)米価が不安定で, 政府の かにして書く。 2 収入が安定しなかったから。 これも○ (例) 税収を安定させるには, 価格が変動す る米を納める方法を変える必要があったから。
社会 中学 歴史 地租改正 年貢 税収 米価 明治 江戸

回答

✨ ベストアンサー ✨

江戸時代の年貢のとり方は、徳川吉宗の享保の改革の頃から、米の収穫の一定の割合を年貢として、支払う方法になっています。四公六民(収穫した米の4割は年貢6割は自分たち)などと言われたりしますね。

なので、一定の割合の米が幕府に安定して入ります。
ところが、このやり方では、幕府が「米をお金に替える」時に、常に米価の影響を受けます。
なので例えば米価が低ければ、あまり収入がありません。

そこで、明治時代の地租改正で、税のとり方を米ではなく、お金にしました。そしてそのお金の金額は土地そのものの価値(地価と言います)の3%(後に2.5%にかわる)です。これで米価の影響を全く受けず、毎年安定して、税をとることができます。

だから、模範解答の、「(江戸時代からのやり方は)米価が不安定で、政府の収入が安定しないから。」は妥当です。

ドトールマン

簡単にいうとおそらく、質問者さんは、地価の意味を誤って理解しているのだと思います。

繰り返しますが、地価は、土地そのものの価値です。
その土地から毎年どれだけ収穫しようが変動しません。最初に政府が田んぼの様子を見て決めた地価が農民の持つ地券に書いてあり、その額は変わりません。

ゆうか

なっなるほど〜!幕府はお米をお金に換えてるんですね。確かにそれでは米価に左右されてしまいますね

あと、勘違いしてました。地租改正は米でなく地券に書かれた額に対応して現金で払うんでしたね〜💦重要なところをド忘れしてました、
あまり学校では深く触れられなかったので困ってました。とても詳しく、わかりやすかったです。ありがとうございました!

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