✨ ベストアンサー ✨
江戸時代の年貢のとり方は、徳川吉宗の享保の改革の頃から、米の収穫の一定の割合を年貢として、支払う方法になっています。四公六民(収穫した米の4割は年貢6割は自分たち)などと言われたりしますね。
なので、一定の割合の米が幕府に安定して入ります。
ところが、このやり方では、幕府が「米をお金に替える」時に、常に米価の影響を受けます。
なので例えば米価が低ければ、あまり収入がありません。
そこで、明治時代の地租改正で、税のとり方を米ではなく、お金にしました。そしてそのお金の金額は土地そのものの価値(地価と言います)の3%(後に2.5%にかわる)です。これで米価の影響を全く受けず、毎年安定して、税をとることができます。
だから、模範解答の、「(江戸時代からのやり方は)米価が不安定で、政府の収入が安定しないから。」は妥当です。
なっなるほど〜!幕府はお米をお金に換えてるんですね。確かにそれでは米価に左右されてしまいますね
あと、勘違いしてました。地租改正は米でなく地券に書かれた額に対応して現金で払うんでしたね〜💦重要なところをド忘れしてました、
あまり学校では深く触れられなかったので困ってました。とても詳しく、わかりやすかったです。ありがとうございました!
簡単にいうとおそらく、質問者さんは、地価の意味を誤って理解しているのだと思います。
繰り返しますが、地価は、土地そのものの価値です。
その土地から毎年どれだけ収穫しようが変動しません。最初に政府が田んぼの様子を見て決めた地価が農民の持つ地券に書いてあり、その額は変わりません。